自警録 / 第六章 怖気の矯正・信じてかかれば怖気ない
そこで僕が自分の恥を晒らして物語り、怖気る人の参考に供したき要点は、相手を信じてかかれということである。渡る世間に鬼はない、鬼でさえ頼めば人を食わぬ。窮鳥懐に入れば猟夫もこれを殺さぬ。怖気たり臆病な人も、他に信じてかかれば怖るることがなくなる。僕はこの一時の経験により、自分の心理状態に一大改革を経たように思う。あるいは読者中には、粗雑にしてかつ乱雑なる僕の演説を聞かれた人もあろうが、こんにち日本においても聴衆の前に立ち、何らの腹案もなく述べ出す。 学術上のことはさて措き、日ごろ思っている考え、日ごろ懐ける感情を述ぶるに、何の怖れることもない。ありのままに口を開け、「腸見せる柘榴」同然にやる。隠したところが、数百の聴衆は僕よりもいっそう鋭敏なる眼をもって見つつある。隠さんとしても隠しきれぬ。急に君子顔を装ったとて、また言葉だけに珠をつらねたとても、音調に得た所がなければ、聴衆の嘲弄を招くばかりである。またその場に急に英雄豪傑を真似たとて、その腹の底に胆力がなければ、話しているあいだの姿勢にて暴露する。聴衆は自分よりも具眼の士であると、彼らを信じてかかれば、かえって怖しくなくなる。同じ獅子の穴に入るにしても、相手が己れを食らうなど思えばおそろしくなるが、この獅子は妄りに人を食わぬことが分かれば、恐怖の念が去る。ゆえに僕は怖気る人に対し特筆して注意したきことは、相手の人を疑うことなかれ、相手の人に好意をもってすれば、彼らもまた君に対し好意を懐くものであると。
書き下し
そこで僕が自分の恥を晒らして物語り、怖気る人の参考に供したき要点は、相手を信じてかかれということである。渡る世間に鬼はない、鬼でさえ頼めば人を食わぬ。窮鳥懐に入れば猟夫もこれを殺さぬ。怖気たり臆病な人も、他に信じてかかれば怖るることがなくなる。僕はこの一時の経験により、自分の心理状態に一大改革を経たように思う。あるいは読者中には、粗雑にしてかつ乱雑なる僕の演説を聞かれた人もあろうが、こんにち日本においても聴衆の前に立ち、何らの腹案もなく述べ出す。 学術上のことはさて措き、日ごろ思っている考え、日ごろ懐ける感情を述ぶるに、何の怖れることもない。ありのままに口を開け、「腸見せる柘榴」同然にやる。隠したところが、数百の聴衆は僕よりもいっそう鋭敏なる眼をもって見つつある。隠さんとしても隠しきれぬ。急に君子顔を装ったとて、また言葉だけに珠をつらねたとても、音調に得た所がなければ、聴衆の嘲弄を招くばかりである。またその場に急に英雄豪傑を真似たとて、その腹の底に胆力がなければ、話しているあいだの姿勢にて暴露する。聴衆は自分よりも具眼の士であると、彼らを信じてかかれば、かえって怖しくなくなる。同じ獅子の穴に入るにしても、相手が己れを食らうなど思えばおそろしくなるが、この獅子は妄りに人を食わぬことが分かれば、恐怖の念が去る。ゆえに僕は怖気る人に対し特筆して注意したきことは、相手の人を疑うことなかれ、相手の人に好意をもってすれば、彼らもまた君に対し好意を懐くものであると。
現代語訳
そこで、僕が自分の恥をさらして語り、怖気づく人の参考にしたい要点は、相手を信じてかかれ、ということです。渡る世間に鬼はなく、鬼でさえ頼めば人を食わないものです。窮した鳥が懐に飛び込めば、猟師もこれを殺しません。怖気づきやすい臆病な人も、他人を信じてかかれば、恐れることがなくなります。僕はこの一時の経験によって、自分の心理状態に一大改革を経たように思います。読者の中には、粗雑で乱雑な僕の演説を聴いた方もあるでしょうが、今日では日本においても、聴衆の前に立ち、何の腹案もなく話し出します。 学術上のことはさておき、日ごろ思っている考え、日ごろ抱いている感情を述べるのに、何も恐れることはありません。ありのままに口を開け、「腸を見せる柘榴」さながらにやります。隠したところで、数百人の聴衆は僕よりもいっそう鋭い目で見ています。隠そうとしても隠しきれません。急に君子ぶってみても、言葉だけを飾り立てても、声の調子に得るところがなければ、聴衆の嘲りを招くだけです。またその場で急に英雄豪傑の真似をしても、腹の底に胆力がなければ、話している間の姿勢に出てしまいます。聴衆は自分よりも見る目のある人たちだと、彼らを信じてかかれば、かえって恐ろしくなくなります。同じ獅子の穴に入るにしても、相手が自分を食うと思えば恐ろしくなりますが、この獅子はむやみに人を食わないとわかれば、恐怖の念は去ります。ですから僕は、怖気づく人に特に注意したい。相手の人を疑ってはいけない、相手に好意をもって接すれば、彼らもまたあなたに好意を抱くものだ、と。
解説

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自警録・第六章 怖気の矯正・始めて試みた英語演説怖気は自信力のとぼしい場合に起こることが多い。「自分はとうていこの任に堪えられぬ」と思えば、手を出すことも怖くなる。 僕がはじめて外国で外国語の演説をしたときは、草稿を携えて行ったが、慣れぬことばで語ることでもあり、かつ聴衆は千有余人もあり、しかも燕尾服着用で聴講料を払って入場した紳士や淑女――一目しても一片の書生たる僕以上の人と見受けられ、加之この時は僕の独り演説であったから、これらの聴衆を見ると、思わず慄然と震えた。 やがて司会者は起って五、六分間、紹介の辞を述べた。この間は僕にとって、生涯忘れられぬ苦痛の瞬間である。場の中央には演壇と椅子があり、その両側には市の有名なる人々が十人ばかりずつ控え、その壮厳なる光景を見ては、なおさら怖気て、手足はブルブルと戦慄した。幸いにして明るくなかったからよかったものの、もし電燈の下にでも立ったなら、いかに顔が青ざめていたであろう。とにかくも、戦きを抑えられぬ。愚かなことをしたものかな、こんな演説を引受けねばよかった、いっそ急病と称して御免を蒙ろうか、何か他の理由をつけて退席せんかと思い煩っている時、ふと浮いた考えが二つあった。一つは、 「ナニ此奴ら、服装こそ美わしけれ、金持ちでこそあれ、高の知れたもののみである。ことに自分の今演べんとすることは、日本に関することではないか、この点については僕は確かに彼らに優れている。少なくとも日本に関する知識においては、彼らはゼロ同然である、否なゼロよりもかえってマイナスであろう。僕が今述ぶる問題の範囲内においては、彼らは取りも直さずまったく無知同様である。かかる人を相手として演説するに、何の怖るることかあらん、この馬鹿者奴らがッ」 としきりに彼らを呑んでかからんとつとめたが、なかなか呑めない。いかに心中では豪傑を衒わんとするも、真底よりの豪傑でないから、ますます怖気てガタガタ戦える。
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自警録・第六章 怖気の矯正・顧みて疚しからずば怖気は起こらぬ話頭は岐路に入ったようであるが、自分の胸中に正しからざる種子が潜伏する以上は、いかに最初は勇敢なるも、いかに初対面のときに豪傑風を装うとも、いかに人に接して偉大なる感を与うることあるも、年を経るにしたがい、その金箔がだんだんに剥げると同時に、その人はますます小さく、臆病にかつ卑怯になる。ゆえに僕は何か人に逢ったり、多数の前に立つ時、怖気を覚ゆればすぐに自分を呼び出し、 「これ稲造、汝は近ごろ、何かバクテリアに罹りはせぬか、どこかで病いの種子を宿しはせぬか」 と自問を発し、あるいは、 「汝は人の前に立ち、少しでもよく自分を思われたいと、自分の真価以上に看板をかけたい了簡なるか、相手の人に褒められたいと思っておりはせぬか、あるいは何か求むる所があって、相手の人にお世辞を述べるか、あるいは妄りに自分を卑下して、なさずともよいお辞儀をなし、みずから五尺四寸の体躯を四尺三尺に縮め、それでも不足すれば、ミルトンの悪魔同然に鳥なり蛇なり蛙なりの程度まで一身を引下げておりはせぬか」。 かく発問すると、なるほどもっともだ、自分は予ての心がけよりも、この点において大いに堕落したと思いあたり、心を取り直し、己れに帰る心地する。して己れの心をそのまま存する者は怖がりもせぬ。怖気は自己の心を離るるより起こる。漢字で立心扁に去る(怯)布く(怖)芒ふ(恾)をつけてこわがるの意を現すも故ありというべし。
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自警録・第六章 怖気の矯正・怖気に処する二種の考えその後、僕はこの経験を思い出すごとに自分の教訓とすることがある。それは天性英雄豪傑ならぬものが、英雄豪傑を気取り、傍若無人を衒い、なに彼奴らがという態度を持することは、あるいはこの方法で成功するものもあるか知らぬが、自分にははなはだ愚かなる方法であると思った。恐らくは他人にも、かかる借り元気は一時の成功を来たすことがあるとも、これをもって常に用うべき策とすべからざるものと思う。これ消極もまたはなはだしきものである。自分に偉い力がないと思いながら、そのない力をあるかのごとく見せ、力ある人を力なきものと仮定し、己れを欺き、人を欺く芸であるから、なかなか骨が折れよう。 これに反し第二の考えは相手の人には力がある、しかも自分より優れた力がある。しかし彼らはこの力を濫用せぬ。自分に対して善用するだろう。我もこれに酬ゆるに相手を軽蔑しあるいは馬鹿者視したりせず、最善を尽すべしと決心する。双方が共に相許し合い、尊敬と同情をもって結びつけられる。何の怖気が起こるべき理由かあらん、何で怖気の起こるべき余地かあらん。
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自警録・第六章 怖気の矯正・演説の顫いを止めた経験すでにしてまた一つの考えが起こった。 「この席に来た人々は日本に関する知識を求めに来たので、決して雄弁や能弁を聴くつもりで来たのでない。日本人が英語を操るのであれば、定めしブロークンな英語であろう。演説の良否よりも、内容が半分も解れば、それで足るくらいに思うであろう。また恐らくは傍聴の半数以上は聴くよりも日本人を見に来たのであろう。僕の演説を充分に解することはその期待せぬところであろう。もし彼らが僕の演説を半ばなりとも了解し得たならば彼の人は感心によく英語を話したと思ってくれるだろう。発音の訛りや、文法の誤謬などはかえって愛嬌の種子になるくらいのものだ。なるほどこの演説は自分にとっては責任が重い。しかし聴衆にして心あらば、任の重きに対して同情してくれるだろう。ゆえに演説中に誤りを笑うものがあるとも、その笑いは冷笑でない。また出来損ねたからとて、あながち国名を汚すことともなるまい。ブロークンながらも怯めず臆せず元気よくやるがよい」と。 かく自分勝手の理屈を考えて、覚悟をしたら、今までの顫いがとまった。わずかに五、六分間であったが、その間に頭脳の考えは二回変った。しかしていよいよ起った時には平然として何のこともなく、草稿にない戯談なども臨時に揷入し、幸いに案外の喝采をうけた。
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自警録・第六章 怖気の矯正・怖気の根本的矯正は自信自重にあり右に述べたのは相手を信用してかかれという意味であるが、これに相伴って必要な一つの覚悟があると思う。それは他人のことに関せぬ自分自身の態度である。いかに他人が自分に対して好意があるだろうと信ぜんとしても、自分の心に暗いところがあれば、みずから信ずる念が乏しくなり、したがってまたみずから重んずる念が欠ける。しかしてみずから重んぜざる人がいかにして他人より重んぜられようか。人爵的の軽重ならばいざ知らず、心より発する尊敬などは自ら重んぜざる人に払うものはあるまい。 ゆえに人を信ずるに先だち、自ら信ずる念がなければならぬ。みずから信ずるというは自分に暗いところがない、よし他人が自分を信ぜなくとも、自分は独立しても世を渡る、またいかに他人が自分を疎んじても、我はあくまでも自ら重んじて、所信を貫くという、みずから潔しとするところがなければならぬ。僕がしばしば引用する Be just and fear not(正を守りて怖るることなかれ)というはすなわちここをいったのである。 自分が正しいと信ずるものは、いかなる事があっても怖れない。したがって人の前に立っても怖気ることがない。かの宗教改革を唱えたルターが始めてその新説を発表し旧教家の反対を受けたときは、その生命の安全さえもはなはだ覚束なかった。そのころルターの友人は彼のある会合に出席せんとしたのを止め、 「今日は家にあれ、一歩戸外に出れば生命は危険である」 と警めたが、ルターは昂然として、 「この町の家屋の瓦ほどに敵が多くとも、心に疚しきことなき以上は、何の怖るることかあらん」 と言い出席したという。おそらくは怖気の根本的矯正法は自身の正しきを自覚するにありと思う。
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自警録・第五章 心強くなる工夫・「心に忌しい点あるか」と反問せよまたこれに関連して述べたいことは、弱点の末の末まで隠し得ないことを心得れば大いに気が澄んで来る。「人焉ぞ廋さんや」で、廋さんとする人はただ一人だがこれを見る人は幾千万人ある。また廋さんと欲する心を示すものは、目、口、鼻など頭の頂上より足の爪先に至るまで、一つとして我々の性質を現す機会とならぬものはない。これを廋さんとするも、これらの機関はほとんど裏切りするかのごとく、我々の心情を現すものである。かく考えると齷齪として、あるものを無しと言い、無いものを有ると見ても、とうてい永続せぬものである。早晩その真相は暴露されるものである。 ゆえに僕はむしろクローディアス王がその画工に対し、 「我を画かんとするなら、どこからどこまですべてを画け、疣も何も」 といった主義に従いたいと思う。むろんこれがために迷惑を受け、他人より多く笑われ、他人より一層多く非難されることもある。しかし常に心に戸閉まりし、つねに隠さんとする重荷がないだけ気軽で、大なる利益がある。要するに心のうちさえさっぱり晴れているなら、何事に逢っても怖いことも恐ろしいこともなくなると僕は確信する。ゆえに人の前に出るにあたり怖気が起こったならちょっと退いて、 「己れの心に忌しい点があるか」 と反問するが肝腎である。臆病なる僕に一大興奮剤となった教訓は沙翁の Be just and fear not の一言である。