呻吟語 / 内篇・倫理・其の要を得るは尊長の自ら脩むるに在り
一家之中,要看得尊長尊,則家治。若看得尊長不尊,如何齊他?得其要在尊長自脩。
新字:一家之中,要看得尊長尊,則家治。若看得尊長不尊,如何斉他?得其要在尊長自脩。
書き下し
一家の中、尊長を看得て尊ければ、則ち家治まる。若し尊長を看得て尊からずんば、如何ぞ他を齊へん。其の要を得るは尊長の自ら脩むるに在り。
現代語訳
一家の中で、目上の者が尊いと見えるなら、家は治まります。もし目上の者が尊く見えなければ、どうして人を整えられるでしょうか。その要点は、目上の者が自分を修めることにあります。
解説
家が治まる条件が、目上の者が尊く見えるかどうかに絞られます。そして肝心なのは、尊べと命じていないところです。尊く見えないなら整えようがない、と現実を認めたうえで、解決は目上の者自身が自分を修めることに置かれます。地位ではなく実質が尊敬を生むという順序で、家庭に限らず組織全般に当てはまる一段です。命じて直る話ではない、という一点で、家訓の常套から外れています。
この章句が説くこと
尊長家尊敬自修順序
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