自警録 / 第五章 心強くなる工夫・「心に忌しい点あるか」と反問せよ
またこれに関連して述べたいことは、弱点の末の末まで隠し得ないことを心得れば大いに気が澄んで来る。「人焉ぞ廋さんや」で、廋さんとする人はただ一人だがこれを見る人は幾千万人ある。また廋さんと欲する心を示すものは、目、口、鼻など頭の頂上より足の爪先に至るまで、一つとして我々の性質を現す機会とならぬものはない。これを廋さんとするも、これらの機関はほとんど裏切りするかのごとく、我々の心情を現すものである。かく考えると齷齪として、あるものを無しと言い、無いものを有ると見ても、とうてい永続せぬものである。早晩その真相は暴露されるものである。 ゆえに僕はむしろクローディアス王がその画工に対し、 「我を画かんとするなら、どこからどこまですべてを画け、疣も何も」 といった主義に従いたいと思う。むろんこれがために迷惑を受け、他人より多く笑われ、他人より一層多く非難されることもある。しかし常に心に戸閉まりし、つねに隠さんとする重荷がないだけ気軽で、大なる利益がある。要するに心のうちさえさっぱり晴れているなら、何事に逢っても怖いことも恐ろしいこともなくなると僕は確信する。ゆえに人の前に出るにあたり怖気が起こったならちょっと退いて、 「己れの心に忌しい点があるか」 と反問するが肝腎である。臆病なる僕に一大興奮剤となった教訓は沙翁の Be just and fear not の一言である。
書き下し
またこれに関連して述べたいことは、弱点の末の末まで隠し得ないことを心得れば大いに気が澄んで来る。「人焉ぞ廋さんや」で、廋さんとする人はただ一人だがこれを見る人は幾千万人ある。また廋さんと欲する心を示すものは、目、口、鼻など頭の頂上より足の爪先に至るまで、一つとして我々の性質を現す機会とならぬものはない。これを廋さんとするも、これらの機関はほとんど裏切りするかのごとく、我々の心情を現すものである。かく考えると齷齪として、あるものを無しと言い、無いものを有ると見ても、とうてい永続せぬものである。早晩その真相は暴露されるものである。 ゆえに僕はむしろクローディアス王がその画工に対し、 「我を画かんとするなら、どこからどこまですべてを画け、疣も何も」 といった主義に従いたいと思う。むろんこれがために迷惑を受け、他人より多く笑われ、他人より一層多く非難されることもある。しかし常に心に戸閉まりし、つねに隠さんとする重荷がないだけ気軽で、大なる利益がある。要するに心のうちさえさっぱり晴れているなら、何事に逢っても怖いことも恐ろしいこともなくなると僕は確信する。ゆえに人の前に出るにあたり怖気が起こったならちょっと退いて、 「己れの心に忌しい点があるか」 と反問するが肝腎である。臆病なる僕に一大興奮剤となった教訓は沙翁の Be just and fear not の一言である。
現代語訳
これに関連して述べておきたいのは、弱点を最後の最後まで隠し通すことはできないと心得れば、大いに気持ちが澄んでくるということです。「人焉ぞ廋さんや」とあるとおり、隠そうとする人はただ一人でも、これを見る人は幾千万といます。また隠そうとする心を示すものは、目、口、鼻など頭のてっぺんから足の爪先まで、一つとして私たちの性質を現す機会とならないものはありません。隠そうとしても、これらの器官はほとんど裏切るように、私たちの心情を現してしまいます。こう考えると、あくせくして、あるものをないと言い、ないものをあると見せても、とうてい長続きしません。遅かれ早かれ、その真相は暴露されるものです。 ですから僕は、むしろクローディアス王が画工に対して言ったという、 「私を描こうというなら、端から端まですべてを描け、いぼも何もだ」 という主義に従いたいと思います。もちろんそのために迷惑を受け、他人より多く笑われ、他人よりいっそう非難されることもあるでしょう。しかし常に心に戸締まりをして、いつも隠そうとする重荷がない分だけ気軽で、大きな利益があります。要するに、心の中さえさっぱり晴れているなら、何事に出会っても怖いことも恐ろしいこともなくなると、僕は確信しています。ですから人の前に出るときに怖気が起こったなら、ちょっと退いて、 「自分の心にやましい点があるか」 と問い返すことが肝心です。臆病な僕にとって大きな興奮剤となった教訓は、シェークスピアの Be just and fear not(正しくあれ、そして恐れるな)の一言でした。
解説

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自警録・第五章 心強くなる工夫・容貌や秘密の暴露は恥とならぬこれが矯正策としては、顔が醜いとても美顔術をほどこす必要もなかろう。蓼食う虫もある世の中にはまったく棄てる物はない。いかに顔が醜いとても、またそれ相応の天職もあろう。ことに容貌は解剖的のものでなく、心の作用によりては、少なくともその表情を変えることが出来る。そして人の顔色を読むには、骨格肉付きの如何よりも、むしろその表情によることが多い。米国の大統領リンカーンは有名な醜男子であった。しかるに親しくこの人に接したものは、彼の青ざめた顔、大きな口、凹んだ眼を忘れてその慈愛に富んだ表情にのみチャームされた。 顔の改造は出来なくとも、心の改良は出来る。また心を改良すればただちにそれが顔に現るることなくとも、またその見分けのつかぬぐらいの人から親しみを受ける価値もないように思わるるが、何を苦しんでか外部の顔のために進取の気象を奪われ、いたずらに卑屈に引込勝ちになろう、と思えば心も晴々しくなって来る。 また外部に現れぬ秘密の事にしても、道徳上恥ずるに足らぬ秘密ならば、すなわち人には明せられぬが、己れが心に明し、あるいは天に明して恥ずべきことでない秘密ならば、暴露したところでこれまた一場の笑話となるか、愛嬌談となるにとどまり、これがために心を痛め、胸を苦しめ、人に顔見らるるを怖るるにあたらない。 田舎から上京した人は東京風を知らぬゆえに、何かにつき無礼を振舞いはせぬかとどきどきする。自分の心に尋ねて人に無礼を加うる念が毛頭なければ、動作の調わぬことなどは、人も宥すであろう、また自分の良心も必ずこれを宥すものである。
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自警録・第六章 怖気の矯正・怖気に処する二種の考えその後、僕はこの経験を思い出すごとに自分の教訓とすることがある。それは天性英雄豪傑ならぬものが、英雄豪傑を気取り、傍若無人を衒い、なに彼奴らがという態度を持することは、あるいはこの方法で成功するものもあるか知らぬが、自分にははなはだ愚かなる方法であると思った。恐らくは他人にも、かかる借り元気は一時の成功を来たすことがあるとも、これをもって常に用うべき策とすべからざるものと思う。これ消極もまたはなはだしきものである。自分に偉い力がないと思いながら、そのない力をあるかのごとく見せ、力ある人を力なきものと仮定し、己れを欺き、人を欺く芸であるから、なかなか骨が折れよう。 これに反し第二の考えは相手の人には力がある、しかも自分より優れた力がある。しかし彼らはこの力を濫用せぬ。自分に対して善用するだろう。我もこれに酬ゆるに相手を軽蔑しあるいは馬鹿者視したりせず、最善を尽すべしと決心する。双方が共に相許し合い、尊敬と同情をもって結びつけられる。何の怖気が起こるべき理由かあらん、何で怖気の起こるべき余地かあらん。