自警録 / 第五章 心強くなる工夫・同病相憐むに出でたる余の気弱
前章に僕は外柔内剛につき少しく述べたが、内剛については所説のいまだ竭さぬところがあったから、いま章をあらためて所感を述べたい。僕はいろいろなる人々と対談し、あるいは種々なる人々より受取る手紙により、世には階級の上下を問わず、年の老若を論ぜず、自分は気が弱くて困る、どうかもっと気を強くする工夫はあるまいかと尋ねられることがしばしばある。 この質問は僕自身が他人に接するごとに痛切に感ずることで、自分が常に気の弱きことを矯めたいと思っているくらいなれば、世人に対してこれが方法を授くるがごときは思いも及ばぬことである。しかし同病相憐むという、僕自身もはなはだ気弱いことを感知し、これにつき年来少しく工夫を凝らしている。もしその工夫を話したなら、たとえ未熟ながらも、また直接に益する人はなくても、世にもまたかくのごときものもあるか、かくのごとき考えをもってその欠点を矯正せんと努めるものがあるかと思って、新たに工夫を運らすに至る人もあろうと思い、僕は本問題を提げたのである。
書き下し
前章に僕は外柔内剛につき少しく述べたが、内剛については所説のいまだ竭さぬところがあったから、いま章をあらためて所感を述べたい。僕はいろいろなる人々と対談し、あるいは種々なる人々より受取る手紙により、世には階級の上下を問わず、年の老若を論ぜず、自分は気が弱くて困る、どうかもっと気を強くする工夫はあるまいかと尋ねられることがしばしばある。 この質問は僕自身が他人に接するごとに痛切に感ずることで、自分が常に気の弱きことを矯めたいと思っているくらいなれば、世人に対してこれが方法を授くるがごときは思いも及ばぬことである。しかし同病相憐むという、僕自身もはなはだ気弱いことを感知し、これにつき年来少しく工夫を凝らしている。もしその工夫を話したなら、たとえ未熟ながらも、また直接に益する人はなくても、世にもまたかくのごときものもあるか、かくのごとき考えをもってその欠点を矯正せんと努めるものがあるかと思って、新たに工夫を運らすに至る人もあろうと思い、僕は本問題を提げたのである。
現代語訳
前の章で私は外柔内剛について少し述べましたが、内剛については、述べ尽くしていないところがありましたので、今回は章をあらためて、感じたところを述べたいと思います。私はいろいろな人と対談し、あるいはいろいろな人から受け取る手紙によって、世には、階級の上下を問わず、年の老若を問わず、自分は気が弱くて困る、もっと気を強くする工夫はないだろうかと尋ねられることがしばしばあります。 この質問は、私自身が他人に接するたびに痛切に感じることで、自分がいつも気の弱いことを直したいと思っているくらいですから、世の人にその方法を授けるなど、思いも及びません。しかし「同病相憐れむ」と言いますが、私自身もたいへん気が弱いことを自覚し、これについて長年少し工夫をこらしています。もしその工夫を話せば、たとえ未熟でも、直接に役立つ人はいなくても、世にはこんな人もいるのか、こんな考えでその欠点を直そうと努める者もいるのか、と思って、新たに工夫をめぐらす人もあろうと思い、私はこの問題を取り上げたのです。
解説

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自警録・第五章 心強くなる工夫・身体局部の故障より来る気弱気弱は生理的原因に由来することがあるゆえ、これを矯正するには、生理的方法によらねばならぬ。すなわち冷水浴を実行するとか、睡眠が不足するものであれば、充分にこれを取るとか、あるいは営養が不足するの虞があれば、食物を改良するとかせねばならぬ。一般の健康状態はさて措き、ある局部が不良なるために卑屈となり引込勝ちとなり、憂欝にに沈む傾向がありはせぬか。これは僕の推測で、あるいは誤っているかも知らぬが、多くの事実よりかく帰納したく思う。 たとえば目の不良なる人はつねに欝陶しく感じ、したがってますます不愉快を覚え、人の前に出るのを厭うにいたる。それが一歩を進めると、衆人の前に出るのを恐れるようになり、いわゆる気弱となる。また胃弱者のごときもまた同じく、気が始終苛々し、つねに人と交際するのを煩わしく思う。煩わしいのが進むと、怖れを生じて気弱となる。要するに生理的状態より来る不快の観念を除くを得ば、気がさわやかになり、人に逢うても快楽を感じ、したがってますます衆人のあいだに出入し、気弱とか怖気とかが取去られてしまう。 例により僕は自分の恥曝しの経験を述べて参考に供したい。僕は少年のころ、物に怖気ない、大胆不敵、あまりに無遠慮であった。両親の友人などが来ても、臆面もなくその前に出て、しゃべりたいことをしゃべり、家の人々の手にもてあまされた。それが二十歳前後になると、処女も及ばぬように引込勝ちになり、人の前に出るを嫌い、人に顔見られるのを怖れた。いまになってその理由を顧みると、身体の工合、ことに目に関係したのではないかと思う。かくいわばあるいは一つの笑話のごとくに聞き捨つるものもあろうが、若い人々の参考のために一言したい。しかるにその後七、八年のあいだに、また幾分か逆戻りして、怖気がなくなったのは、その間に日常心懸けたこともあるが、一つには身体の工合がよくなったためと思う。
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自警録・第五章 心強くなる工夫・弱点の自覚より起こる気弱(1)自分の弱点を自覚するために怖気ることがある。これは世間に多く見ることで、笑われはせぬか、憎まれはせぬか、嘲られはせぬかと、つねに心に憂うるゆえに、かかる虞ある場所には成るべく欠席せんとする考えが起こる。そうでなくてさえ、人にはいかなる人にても、秘密はあるものである。もっとも秘密だからといって、決して悪いものとは限らぬ。何らの秘密なしと称する人こそ怪しむべきである。何人も隠すべきものをもっている。秘密といえば何か悪事するごとく思い疑わんが、決してそうでない。 処女の羞かしがるは何が一番甚だしきかというに、自分の体にありて、親にも示すべからざるものあるがためである。これは秘密にすべきものではあるが、善悪の標準をもって論ずる限りではない。いな解剖上よりいえば、婦人が婦人としての身体を有せぬが恥ずべきことである。ゆえに各人が秘密を有すればとて決して怪しむに足らぬ当然なことである。この秘密を発見せられはせぬかという観念が人をして怖気させるのである。 京都の人は、「晴がましい」という言葉を使う、すなわち東京のいわゆる、「きまりが悪い」の意で、目立つ所に立ち、多数の環視のもとに出ることを晴がましいといって引込むが、これは何か秘密とすることを発見されはせぬかというに起こる。しかしてこの秘すべきことに、何らかの弱点があれば、この念がいっそう深くなる。