自警録 / 第三章 強き人・己れに克つものが世界に勝つ
昔のスパルタ人の教育法は無やみに武張って、勇ましくいさましくとのみ教えた。わが輩も年のわかかった頃、スパルタ式の教育法にはなはだ感服したこともあるが、しかし同国がこの教育法によりて何をなしたかと考うると、はなはだ心ぼそい結果となる。かくいったからとてわが輩は決してスパルタ式教育がことごとく悪いといわぬ。ただあれだけではいかぬというのである。すなわち精神的勇気を養わずして猛獣的に強からんことを養うはスパルタ式教育の大なる欠点である。これは今日もなお同じことである。ある青年の道徳品行を観察する人はかつてわが輩に向い、 「某県より来る学生は、上京当時はすこぶる硬い、なんとなれば某県にある時はいわゆるスパルタ式教育法を受け、猛獣的に強くなっているからである。しかして最も早くかつ烈しく堕落するのは彼らの仲間である。なんとなれば彼らは強さをそとに求むればなり」 といったが、精神的勇気を養わなければ、真の強い人となることは出来ぬ。真に克つ者は己れに克つを始めとなすべく、しかして後に人に克つべし。しかるに往々この順序を逆にするから結果がおもしろくなくなる。 外よりは手もつけられぬ要害を内より破る栗のいがかな 栗のいがも強さを助くるものではあろうが、これが力であると思うは大間違いである。力は内にある確信と、この確信を実行するためにあらゆる障害に堪える意志である、しかしてかくして得たる力が真に強き力である。 真の力は内に発し、内に練られ、内に磨かれ、内に養われ、内に貯えられ、内より溢れて外に流れるから、十分余裕がある。ゆえに内、己れに克つものは外、世界にも勝つことが出来る。己れに克つこと能わずして世界に勝つことは、一時的に出来ぬこともなかろうが、恒久の勝利を得ることは望み難い。古人の書に曰く、 「自責の外に、人に勝つの術なく、自強の外に人に上たるの術なし」 と。太古、禹王が、「一に能く予に勝つ」といったが、後の学者はこの言を評して、「君子この小心なかるべからず」といっている。
書き下し
昔のスパルタ人の教育法は無やみに武張って、勇ましくいさましくとのみ教えた。わが輩も年のわかかった頃、スパルタ式の教育法にはなはだ感服したこともあるが、しかし同国がこの教育法によりて何をなしたかと考うると、はなはだ心ぼそい結果となる。かくいったからとてわが輩は決してスパルタ式教育がことごとく悪いといわぬ。ただあれだけではいかぬというのである。すなわち精神的勇気を養わずして猛獣的に強からんことを養うはスパルタ式教育の大なる欠点である。これは今日もなお同じことである。ある青年の道徳品行を観察する人はかつてわが輩に向い、 「某県より来る学生は、上京当時はすこぶる硬い、なんとなれば某県にある時はいわゆるスパルタ式教育法を受け、猛獣的に強くなっているからである。しかして最も早くかつ烈しく堕落するのは彼らの仲間である。なんとなれば彼らは強さをそとに求むればなり」 といったが、精神的勇気を養わなければ、真の強い人となることは出来ぬ。真に克つ者は己れに克つを始めとなすべく、しかして後に人に克つべし。しかるに往々この順序を逆にするから結果がおもしろくなくなる。 外よりは手もつけられぬ要害を内より破る栗のいがかな 栗のいがも強さを助くるものではあろうが、これが力であると思うは大間違いである。力は内にある確信と、この確信を実行するためにあらゆる障害に堪える意志である、しかしてかくして得たる力が真に強き力である。 真の力は内に発し、内に練られ、内に磨かれ、内に養われ、内に貯えられ、内より溢れて外に流れるから、十分余裕がある。ゆえに内、己れに克つものは外、世界にも勝つことが出来る。己れに克つこと能わずして世界に勝つことは、一時的に出来ぬこともなかろうが、恒久の勝利を得ることは望み難い。古人の書に曰く、 「自責の外に、人に勝つの術なく、自強の外に人に上たるの術なし」 と。太古、禹王が、「一に能く予に勝つ」といったが、後の学者はこの言を評して、「君子この小心なかるべからず」といっている。
現代語訳
昔のスパルタ人の教育法は、むやみに武張って、勇ましく勇ましくとばかり教えました。私も若い頃は、スパルタ式の教育にたいへん感服したことがありますが、しかし同国がこの教育法で何を成し遂げたかを考えると、じつに心もとない結果です。こう言っても、私はスパルタ式教育がすべて悪いと言うのではありません。ただ、あれだけではいけないというのです。つまり、精神的な勇気を養わずに、猛獣のように強くなることだけを養うのが、スパルタ式教育の大きな欠点です。これは今日も同じです。ある青年の品行を観察している人が、かつて私にこう言いました。 「某県から来る学生は、上京した当時はなかなか硬い。なぜなら、故郷でいわゆるスパルタ式の教育を受け、猛獣のように強くなっているからだ。そして、もっとも早く、もっとも激しく堕落するのは、その仲間である。なぜなら彼らは、強さを外に求めるからだ」 と言いましたが、精神的な勇気を養わなければ、本当に強い人にはなれません。本当に勝つ者は、まず己に勝つことから始め、その後で人に勝つべきです。ところが、しばしばこの順序を逆にするので、結果がおもしろくなくなります。 外よりは手もつけられぬ要害を内より破る栗のいがかな (外からは手もつけられない守りを、内から破る栗のいがであることよ) 栗のいがも強さを助けるものではあるでしょうが、それを力だと思うのは大間違いです。力とは、内にある確信と、この確信を実行するためにあらゆる障害に耐える意志です。そうして得た力が、真に強い力です。 真の力は内に生まれ、内で練られ、内で磨かれ、内で養われ、内に蓄えられ、内からあふれて外に流れ出るので、十分に余裕があります。ですから、内で己に勝つ者は、外でも世界に勝つことができます。己に勝てないまま世界に勝つことは、一時的にはできないこともないでしょうが、永続する勝利は望みがたいのです。古人の書にこうあります。 「自分を責めるよりほかに人に勝つ術はなく、自分を強くするよりほかに人の上に立つ術はない」 と。太古、禹王が「ひとえによく私に勝つ」と言い、後の学者はこの言葉を評して、「君子にはこの小心がなければならない」と言っています。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
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自警録・第三章 強き人・「克つ」に含まれた二種の考え克つといえば誰しもただちに強い、すなわち力の有るという思想と連関して考える。しかして強いあるいは有力というについてただちに起こる考えは少なくとも二種ある。一つは人に負けぬこと、一つは人に勝つことである。ゆえに克つことについても、この二種の考えが含まれている。字引を見ると、克の字はもと家を支うる材木の意味であり、したがって人の場合には重荷を荷って堪える意を含ませてあると聞くが、これはいわゆる勝つ所以を最もよく表したものと思う。 克つ人といえばとかく外部の敵に勝つように思わるるが、その外に障害物を一掃する人、もしくは破壊する人と思われる。また野蛮人の社会においては、破壊する人が一番の強者として尊敬される。ひとり野蛮人のみならず、進歩したる今日の社会においても、ややもすれば乱暴に破壊する力を逞しゅうする者が最も強いように信ぜられ、何かぶちこわすことが偉いことにされている。わが輩が往年塾にあったとき、食堂で茶碗類をこわすものがあると、人に強い奴と思われ、自分もまたそう思うらしく、あるいは洋燈でも叩きこわすと、強い奴と賞め讃えられた時代もあった。これはあたかも茶碗やランプを相手にする者は力あるものと信じ、取りも直さず器具に克つことをもって偉いこととみなすのである。
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自警録・第三章 強き人・文明時代の強き力世には、かくのごとき児戯に類した示威運動により怖れたり、またはこれを偉いもののように思う者も多くある。論より証拠、おりおり日比谷の近辺をはじめ諸所に行わるるモッブ騒ぎを見ても分かる。自分から進んで他を威赫したり、あるいは苦しめたりするのは、未開の社会における強さである。もちろん文明の進んだ今日とても、なさけないことには、かくのごとき示威運動の必要なる場合もある。しかしこれは他の手段方法がすでにまったく尽きた最後になすべきことで、未開国ならいざ知らず、法治国においてはかくのごとき方法によりて自己の意志の鞏固なることを示すを必要とする場合ははなはだ少ない。 かつまた人を威して克つのは、みずから恥ずべき下劣なる勝利である。また個人々々の一身上にとりても攻撃的態度をもって他人にせまる必要は、はなはだ少ないと思う。しからば文明国にては文明の進歩とともに強力が減退してますます人が柔弱になるかというに、決してそうではない。減退するのでなく、強さの形、力の現れ方が変化するのである。 いわゆる強さの形が変化するというは、克の字について前の「説文」にいえるがごとく、重荷を荷うて堪えること、すなわち辛苦艱難に堪える、耐忍の力あることをもってその強さが計られる。他人より侮辱をうけ、カッとなりてこれに手向かいするは、一見極めて勇ましく思われ、第三者より見てにぎやかにおもしろく、見物としては誂え向きである。これに反し打たれても蹴られてもジッとこれに堪えるのは、はなはだ陰気で卑屈のごとく、普通の人にはちょっとその強さを見ることが出来ぬ。韓信が市井の間に股をくぐったことは、非凡の人でなければ、張飛が長板橋上に一人で百万の敵を退けたに比し、その勇気あるを喜ぶものはなかろう。進歩したる人にあらねば真の強さは忍耐にあることを会得し得ぬ。
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自警録・第一章 男一匹・勇は男一匹たるの要素人にまけ己れにかちて我を立てず義理を立つるが男伊達なり の一首まことに深重の味がある。ことに上の句の「人にまけ」のごときは前に述べたもろもろの宗教の教うるところで、右の頬を打たるれば左の頬を出すがごとき意を含んでいる。またそのつぎの「己れにかちて」などは勇の最も洗練されたるものである。勇気もこの階段に達すればもはや猛勇でなく、匹夫の勇でもない。孟子のいわゆる大勇なるもので、西洋の学者のいうモーラル・カレッジ(道徳的勇気)である。 男一匹たるの資格は第一に勇を揮うて己れに克つにありと思う。己れに克つものはほかに勝つこともさほど難事でない。己れに克つものは世界に勝つことを得と古人の言えるのはこのことである。なお古い漢書に曰く、 「善く身を処する者は、必らず世に処す。善く世に処せざるは、身を賊する者なり。善く世に処する者は、必らず厳に身を修む。厳に身を修めざるは世に媚ぶる者なり」 と。決して女子は勇気なくともよいというのではないが、女子の強きところは耐忍にありとせば、男子の特長は猛進的なる奮闘の力にある。このことを論ずるには多言を要せぬ。動物を見てもすみやかに天意のどこにあるやは察しられる。 孔子の弟子なる子路は勇ましい男性的の者であって、つねに勇を好んだ。ある日孔子にたずねた、 「君子は勇を尚ぶか」 と、孔子は答えて、 「君子は義をもって上とす。君子勇ありて義なければ乱を為す。小人勇ありて義なければ盗をなす」と。 じつにそのとおりで、古人の語に、 「深沈厚重は是れ第一等の資質、磊落雄豪は是れ第二等の資質、聡明才弁は是れ第三等の資質なり」と。
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自警録・第一章 男一匹・男は強かるべし強がるべからず女子の保護者たる役目を全うするには猛勇では叶わぬ。やはり優しきところ、一見女性的のところがなくてはならぬ。血も涙もあってこそ真の男と称すべし。今後の男伊達は決して威張り一方では用をなさぬ。内心剛くして外部に柔らかくなくてはならぬ。むかしの賢者も教えて曰く、 「人剛を好めば我柔をもってこれに勝つ」 と、また曰く、 「柔能く剛を制す、赤子に遇うて賁育その勇を失う」と。 男子は須らく強かるべし、しかし強がるべからず。外弱きがごとくして内強かるべし。 負けて退く人を弱しと思ふなよ智恵の力の強き故なり とは、真の男子の態度であろう。男もこの点まで思慮が進むと、先きに述べたる宗教の訓うる趣旨に叶うてきて、深沈重厚の資と磊落雄豪の質との撞着が消えてくる。かくなると羊のようにおとなしい性と虎のごときたけき質とを兼備する人格が出るであろう。漢学者の使用する一句に、「羊質虎皮」というのがあって、外面虎皮をかぶりて虚勢を張り、内心卑怯きわまる偽物を指す成語としてあり、楊雄(前五八―後一八)の文に、 「羊質にして虎皮、草を見て悦び、豺を見て戦く、其の皮の虎なるを忘るるなり」 とあるが、草を見て悦ぶになんの悪きことがない。悪きことは豺を見て戦く臆病心にあるのだから、その温順寡慾なる羊質をもちながら、なお虎の驍悍勁厲なる質を修めたら、すなわち廉毅忠果の性格となりてこれに超ゆる人格はなかろう。政治家かつ文学者として高名なるバヤード=デーロル氏の詩に曰く、 The bravest are the tenderest, ―― The loving are the daring. (勇深なる者は温柔なる者、愛情深き者は大胆なる者なり)
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自警録・第五章 心強くなる工夫・同病相憐むに出でたる余の気弱前章に僕は外柔内剛につき少しく述べたが、内剛については所説のいまだ竭さぬところがあったから、いま章をあらためて所感を述べたい。僕はいろいろなる人々と対談し、あるいは種々なる人々より受取る手紙により、世には階級の上下を問わず、年の老若を論ぜず、自分は気が弱くて困る、どうかもっと気を強くする工夫はあるまいかと尋ねられることがしばしばある。 この質問は僕自身が他人に接するごとに痛切に感ずることで、自分が常に気の弱きことを矯めたいと思っているくらいなれば、世人に対してこれが方法を授くるがごときは思いも及ばぬことである。しかし同病相憐むという、僕自身もはなはだ気弱いことを感知し、これにつき年来少しく工夫を凝らしている。もしその工夫を話したなら、たとえ未熟ながらも、また直接に益する人はなくても、世にもまたかくのごときものもあるか、かくのごとき考えをもってその欠点を矯正せんと努めるものがあるかと思って、新たに工夫を運らすに至る人もあろうと思い、僕は本問題を提げたのである。
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自警録・第十一章 人生の決勝点・勝敗の決勝点を高きに置けわが輩の言ったことを一言に約すれば、勝敗を定むる標準を高きに置けよというに帰着する。ことに青年時代いまだまったく心の俗化せぬとき、すなわち理想のいまだ高き時に、みずから決勝点を定めよ。しかしてこれを高きに置け。すなわち金を儲けるのも儲ける道を純白にし、卑怯な方法にて儲くれば、これ奮闘の敗北なりとみなし、また高き位地を得るにしても、他人を踏台としたり甚だしきは友人までも売って位地を占めんとしたら、これまた勝利にあらずして敗北なりと心得、よし名を挙げるにしても、卑劣な賤しき方法によりて得たならば、その名がいかに広まるとも、勝利にあらずして敗北なりと思い、これに反し自分の同僚友人が潔からざる手段を弄して巨万の富を積み、高位に上るとも、また名声を海外に轟かすとも、さらに恨むにも当たらず、また彼らに対し自分は敗北者だと卑下して小さくなる必要もない。 物質的利益に超脱し、名誉、地位、得喪の上に優游するを得ば、世間に行わるる勝敗は児戯に等しきものとなる。真の勝利者は第一己れなる者を全然破り、己れに克ち、古人の言う私心なきことこそ必勝の条件なれ。この点に意を留めたなら世間でかれこれいう勝敗などのために心を動かすことなく、勝っても笑わず、負けても泣かず、勝利のために誇らず、敗北のために歎かず、心つねに平々坦々として、定めし幸福なることであろう。 孔子のいわゆる、 「君子は坦にして蕩々たり、小人は長に戚々たり」 とはこの心をいうならん。これで基督は磔になりながら、 「われ世に勝てり」 と叫んだ心をも幾分か理解し得る。