自警録 / 第三章 強き人・「克つ」に含まれた二種の考え
克つといえば誰しもただちに強い、すなわち力の有るという思想と連関して考える。しかして強いあるいは有力というについてただちに起こる考えは少なくとも二種ある。一つは人に負けぬこと、一つは人に勝つことである。ゆえに克つことについても、この二種の考えが含まれている。字引を見ると、克の字はもと家を支うる材木の意味であり、したがって人の場合には重荷を荷って堪える意を含ませてあると聞くが、これはいわゆる勝つ所以を最もよく表したものと思う。 克つ人といえばとかく外部の敵に勝つように思わるるが、その外に障害物を一掃する人、もしくは破壊する人と思われる。また野蛮人の社会においては、破壊する人が一番の強者として尊敬される。ひとり野蛮人のみならず、進歩したる今日の社会においても、ややもすれば乱暴に破壊する力を逞しゅうする者が最も強いように信ぜられ、何かぶちこわすことが偉いことにされている。わが輩が往年塾にあったとき、食堂で茶碗類をこわすものがあると、人に強い奴と思われ、自分もまたそう思うらしく、あるいは洋燈でも叩きこわすと、強い奴と賞め讃えられた時代もあった。これはあたかも茶碗やランプを相手にする者は力あるものと信じ、取りも直さず器具に克つことをもって偉いこととみなすのである。
新字:克つといえば誰しもただちに強い、すなわち力の有るという思想と連関して考える。しかして強いあるいは有力というについてただちに起こる考えは少なくとも二種ある。一つは人に負けぬこと、一つは人に勝つことである。ゆえに克つことについても、この二種の考えが含まれている。字引を見ると、克の字はもと家を支うる材木の意味であり、したがって人の場合には重荷を荷って堪える意を含ませてあると聞くが、これはいわゆる勝つ所以を最もよく表したものと思う。 克つ人といえばとかく外部の敵に勝つように思わるるが、その外に障害物を一掃する人、もしくは破壊する人と思われる。また野蛮人の社会においては、破壊する人が一番の強者として尊敬される。ひとり野蛮人のみならず、進歩したる今日の社会においても、ややもすれば乱暴に破壊する力を逞しゅうする者が最も強いように信ぜられ、何かぶちこわすことが偉いことにされている。わが輩が往年塾にあったとき、食堂で茶碗類をこわすものがあると、人に強い奴と思われ、自分もまたそう思うらしく、あるいは洋灯でも叩きこわすと、強い奴と賞め讃えられた時代もあった。これはあたかも茶碗やランプを相手にする者は力あるものと信じ、取りも直さず器具に克つことをもって偉いこととみなすのである。
書き下し
克つといえば誰しもただちに強い、すなわち力の有るという思想と連関して考える。しかして強いあるいは有力というについてただちに起こる考えは少なくとも二種ある。一つは人に負けぬこと、一つは人に勝つことである。ゆえに克つことについても、この二種の考えが含まれている。字引を見ると、克の字はもと家を支うる材木の意味であり、したがって人の場合には重荷を荷って堪える意を含ませてあると聞くが、これはいわゆる勝つ所以を最もよく表したものと思う。 克つ人といえばとかく外部の敵に勝つように思わるるが、その外に障害物を一掃する人、もしくは破壊する人と思われる。また野蛮人の社会においては、破壊する人が一番の強者として尊敬される。ひとり野蛮人のみならず、進歩したる今日の社会においても、ややもすれば乱暴に破壊する力を逞しゅうする者が最も強いように信ぜられ、何かぶちこわすことが偉いことにされている。わが輩が往年塾にあったとき、食堂で茶碗類をこわすものがあると、人に強い奴と思われ、自分もまたそう思うらしく、あるいは洋燈でも叩きこわすと、強い奴と賞め讃えられた時代もあった。これはあたかも茶碗やランプを相手にする者は力あるものと信じ、取りも直さず器具に克つことをもって偉いこととみなすのである。
現代語訳
「克つ」と言えば、誰もがすぐに強い、つまり力があるという考えと結びつけて考えます。そして強いとか有力とかいうことについてすぐ起こる考えは、少なくとも二種類あります。一つは人に負けないこと、もう一つは人に勝つことです。ですから「克つ」ということにも、この二種類の考えが含まれています。字引を見ると、「克」の字はもともと家を支える材木の意味で、したがって人の場合には、重荷を背負って耐えるという意味を含ませていると聞きますが、これは「勝つ」ゆえんを最もよく表したものだと思います。 克つ人と言えば、とかく外部の敵に勝つように思われますが、その場合、障害物を一掃する人、あるいは破壊する人と思われます。また野蛮人の社会では、破壊する人が一番の強者として尊敬されます。ひとり野蛮人だけでなく、進歩した今日の社会でも、ともすれば乱暴に破壊する力を振るう者が最も強いと信じられ、何かをぶちこわすことが偉いことにされています。私が昔、塾にいたころ、食堂で茶碗類をこわす者がいると、強い奴だと人に思われ、自分もそう思うらしく、あるいはランプをたたきこわすと、強い奴だと褒めたたえられた時代もありました。これはあたかも、茶碗やランプを相手にする者は力があると信じ、とりもなおさず、器具に克つことをもって偉いこととみなすのです。
解説

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自警録・第三章 強き人・文明時代の強き力世には、かくのごとき児戯に類した示威運動により怖れたり、またはこれを偉いもののように思う者も多くある。論より証拠、おりおり日比谷の近辺をはじめ諸所に行わるるモッブ騒ぎを見ても分かる。自分から進んで他を威赫したり、あるいは苦しめたりするのは、未開の社会における強さである。もちろん文明の進んだ今日とても、なさけないことには、かくのごとき示威運動の必要なる場合もある。しかしこれは他の手段方法がすでにまったく尽きた最後になすべきことで、未開国ならいざ知らず、法治国においてはかくのごとき方法によりて自己の意志の鞏固なることを示すを必要とする場合ははなはだ少ない。 かつまた人を威して克つのは、みずから恥ずべき下劣なる勝利である。また個人々々の一身上にとりても攻撃的態度をもって他人にせまる必要は、はなはだ少ないと思う。しからば文明国にては文明の進歩とともに強力が減退してますます人が柔弱になるかというに、決してそうではない。減退するのでなく、強さの形、力の現れ方が変化するのである。 いわゆる強さの形が変化するというは、克の字について前の「説文」にいえるがごとく、重荷を荷うて堪えること、すなわち辛苦艱難に堪える、耐忍の力あることをもってその強さが計られる。他人より侮辱をうけ、カッとなりてこれに手向かいするは、一見極めて勇ましく思われ、第三者より見てにぎやかにおもしろく、見物としては誂え向きである。これに反し打たれても蹴られてもジッとこれに堪えるのは、はなはだ陰気で卑屈のごとく、普通の人にはちょっとその強さを見ることが出来ぬ。韓信が市井の間に股をくぐったことは、非凡の人でなければ、張飛が長板橋上に一人で百万の敵を退けたに比し、その勇気あるを喜ぶものはなかろう。進歩したる人にあらねば真の強さは忍耐にあることを会得し得ぬ。
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自警録・第三章 強き人・己れに克つものが世界に勝つ昔のスパルタ人の教育法は無やみに武張って、勇ましくいさましくとのみ教えた。わが輩も年のわかかった頃、スパルタ式の教育法にはなはだ感服したこともあるが、しかし同国がこの教育法によりて何をなしたかと考うると、はなはだ心ぼそい結果となる。かくいったからとてわが輩は決してスパルタ式教育がことごとく悪いといわぬ。ただあれだけではいかぬというのである。すなわち精神的勇気を養わずして猛獣的に強からんことを養うはスパルタ式教育の大なる欠点である。これは今日もなお同じことである。ある青年の道徳品行を観察する人はかつてわが輩に向い、 「某県より来る学生は、上京当時はすこぶる硬い、なんとなれば某県にある時はいわゆるスパルタ式教育法を受け、猛獣的に強くなっているからである。しかして最も早くかつ烈しく堕落するのは彼らの仲間である。なんとなれば彼らは強さをそとに求むればなり」 といったが、精神的勇気を養わなければ、真の強い人となることは出来ぬ。真に克つ者は己れに克つを始めとなすべく、しかして後に人に克つべし。しかるに往々この順序を逆にするから結果がおもしろくなくなる。 外よりは手もつけられぬ要害を内より破る栗のいがかな 栗のいがも強さを助くるものではあろうが、これが力であると思うは大間違いである。力は内にある確信と、この確信を実行するためにあらゆる障害に堪える意志である、しかしてかくして得たる力が真に強き力である。 真の力は内に発し、内に練られ、内に磨かれ、内に養われ、内に貯えられ、内より溢れて外に流れるから、十分余裕がある。ゆえに内、己れに克つものは外、世界にも勝つことが出来る。己れに克つこと能わずして世界に勝つことは、一時的に出来ぬこともなかろうが、恒久の勝利を得ることは望み難い。古人の書に曰く、 「自責の外に、人に勝つの術なく、自強の外に人に上たるの術なし」 と。太古、禹王が、「一に能く予に勝つ」といったが、後の学者はこの言を評して、「君子この小心なかるべからず」といっている。
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自警録・第三章 強き人・戦場における日露兵の比較かつてある軍人に満州の戦場において日露両国兵の優劣如何を問いしに、その人の言に、 「ロシア人は死するも活くるも神の力により、働くも働かぬも神のためなりと、こう考えていたらしい。ゆえに卑怯者もたくさんあったが、何ごとなりとも命令を受くると、人が居ろうと居るまいとを問わず、神のためと思ってその任務を果たすことにつとめた。しかるに日本兵は煽てなければ働かない。決死隊と称するものも、何人か彼らの花のごとく散るありさまを目撃する者がなければ、ことに将校が現場に居る場合でなければ、士気はなはだ振わなかった」 と物語ったが、あるいはそうであったかも知れぬ。いまだ一般民衆の中には強いという観念ははなはだ幼稚である。むしろ猛獣的の一見して人が己れを怖れるとか、あるいはいつでも人に噛みつかんとする気が顕われねば強いと思わぬものもあるが、これがそもそも人を弱からしめる手段ではあるまいかと思う。議論をしても、理屈を述ぶるよりは声の高いほうが勝つと思い、あるいは悪口でも吐くを元気と思うごとき世の中では、真の強さはちょっと解りかねるであろう。
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自警録・第三章 強き人・独り相撲で強い人つまらぬことではあるが、今もなおわが輩の記憶に残れることがある。十余年以前であった。あるところに宴会が開かれ、当時議会で羽ぶりのよい有名な某政治家が招待せられ、わが輩もその末席についたことがある。酒数行、主客ともに興酣となり、談論に花が咲き、元気とか勝気とかいさましい議論の風発せるあいだに、わが輩は退席せんとして玄関に出た。某政治家も爛酔して前後もわきまえず女中の助けをかりて蹣跚として玄関に来たが、自分の強さ加減を証拠だてるため、女中が冠らせた帽子を、戦く手より奪いとり、玄関の柱に叩きつけ、意気揚々として車で帰ったことがある。この時までわが輩はおおいにこの政治家の人物を尊敬したが、このいわゆる強さを見て、 「ハハア、かねて聞き及べる某の硬骨とはこのへんが程度かな。この人は古シャッポを相手に克つ人だナア」 と思い、爾来大いに尊敬の念を失ったことがある。この前にもその後にも、他人についてこれに類した事実をしばしば目撃したが、こういうことが果たして強い証拠であろうかと思うと、何となく人を動物視したくなって来る。 またこれに類する話であるが、われわれがしばしば出会わすことは自分の勝った手柄自慢話である。俺はこういったら先方は一言もなかったとか、向うを大いにへこましたとか、最もしばしば耳にする語はこうこういってやったなどと、語る人の言によれば、いかにも先方は恐れ入ったように聞こゆるけれども、さて先方に質してみると、一向やられたともなんとも歯牙にかけないでおることがある。これらは独り相撲で力んでおる人である。
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自警録・第十一章 人生の決勝点・人生の勝利者こんなもので世の中でいわゆる勝負を測る標準は、人の実力や努力の標準とはちがう。ゆえに俗界を離れて高い立場よりこの世の競争奮闘のありさまを見れば、定めて可笑しきことがたくさんあろう。世間で得意を極める人も、高き標準から測ったならば、最も卑むべきものとなりはせぬか。耶蘇がその弟子に説いた言葉に、 「地上にありて最大たりしものも、天国にありては恐らくは最小なるものならん」 と述べたが、天国に行かずとも、同じ地球の表面においてすらも、時の移るとともに人の勝敗を定める標準が追々違って来るかと思われる。 この前にも述べたごとく野蛮の社会においては腕力ある者が最強者で、最大勝利者で、人も尊敬し自己もまた得意であった。社会が一定の秩序の下に治められ、腕力のみをもって優劣を定めることを止めて以来、理屈の最も分かるものが社会で勝利を得ることになった。すなわち法治国においては法を破らぬ範囲内において、自己の利益を最もよく図るものが勝利者となるに至った。しかるに社会がさらに進歩し礼をもって治められる時代に到達したならば、礼の最も厚き人が最高の勝利者となる。 いかなる世においても、種々なる形で競争が行われる。あるいは商業、あるいは学術研究、あるいは芸術、社交、その他いかなる階級にもそれぞれ競争は絶えぬ。して競争あれば必ず勝者と敗者がある。一口に勝者という者の中にも一番強い者を相手にした者は一番偉い勝者である。また同じく敵と称する者の中にも種類が数多ある。強きもあれば弱きもある。赤鬼もいれば青鬼もおろう。してあらゆる種類の敵に勝つ者は一番偉い勝者である。時には敵とは称せずとも吾人の勝つべき相手もある。それは親兄弟、妻子、朋友のごときはもちろん敵ではないが、彼らが我々の心に服さぬことがあれば、その不服の範囲において敵のごときものである。ゆえに広い意味においては親兄弟にも勝たねばならぬ。楠正成の歌に、 我にかちみかたに勝ちて敵にかつこれを武将の三勝といふ とあるのが、ちょうど僕の今いう勝つべき相手の種類である。
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自警録・第十一章 人生の決勝点・勝つとは何を意味するか(2)負けて勝つ智恵の力の強さにはたれも感心するぞ韓信 わが輩はしばしば思う、頸引きという遊戯は前に倒れるものが負けと定まっている。しかし実際には勝った者が勝ちに乗じて強く引くとき、かえって引っくりかえるのをしばしば見る。もし単に倒れる者を負けとすれば、勝敗の標準が異なり、従来勝った者が負けとなり、負けた者が勝ちとなる。ある狂歌師の作に曰く、 負けて勝つ心を知れや首引きのかちたる人の仆るゝを見よ ジャンケンで勝負を決するのも同様である。石と紙といずれが勝つかと、何事も知らぬ外人に質せば、恐らく石が紙よりも重く強く、かつ固いから、石が紙に勝つというであろう。 して見れば、勝つという語の定義を下すことは至難であるが、普通の考えでは他人に優る、相手より超絶るの意であろう。さらばただただ人より偉いと嬉しがるために勝つかと問わば、決して偉がるばかりが目的でない、むしろ人を服従させるのが勝つの意味である。ゆえに争わずとも自然に服従さすれば、それで勝利を得たというべきである。さらに一歩を進めて、服従させるとは何のためと問わば、これ自己の意志を行うためと答えてよかろう。しからば勝つとは吾が意を遂げるなりと定義したい。