自警録 / 第二章 一人前の人と一人前の仕事・測る標準は内にあるか外にあるか
しかるにこの例について起こる疑問は、定規として用いた標準はみな自己以外にあることである。学生ならば学校の規則と教師の要求する業務を行うのである。商売人ならば他より起こる取引を完うするのであり、婦人ならば家政上のことを、いわば余儀なくさせらるるのである。ノルムは定規なりといったが、この定規は自己以外に、世人がわれわれに期待する業務の分量であり、してその分量は、同じ境遇にある普通の人が為しつつある分量であって、甲も乙も丙も丁もやり得るのだから誰れでもやるべきものと定められている分量である。俗にいう世間の勤めとはこのことをいうらしい。 ここで僕の心を苦しむることは右のごとく一定の職務とか地位とかが要求するのなら、ずいぶん明白に寸法に従って測り得るが、しかし俺は一人前の人間なりやというにいたっては、仕事をもって測るのでなく、思想をもって測るのではあるまいか。果たしてそうとすれば自分の心を測るノルムは果たしていかなるものなりや。またどこにありや。 もしノルムにして自己以外にあるものならんには、自分の勝手にならぬことは確実である。たとえば牛肉屋に行き、俺は人並みよりも大食であるといったからとて、一人前として五十匁なり六十匁なりを持っては来ない、私は小食ですと遠慮したとしても、一人前の注文すれば牛肉はやはり三十匁である。己れは碌な教育を受けなかったといったからとて、自分が一人前に足らぬ業をすれば世間は斟酌せぬ。私は最高教育を受けた者だといったからとて、一時の尊敬を受くるかは知らぬが、その人格にいかがわしきことがあれば、彼に対する尊敬は永続せぬ。学問は人並み以上でも人として果たして一人前なりや否やはおのずから別問題である。
書き下し
しかるにこの例について起こる疑問は、定規として用いた標準はみな自己以外にあることである。学生ならば学校の規則と教師の要求する業務を行うのである。商売人ならば他より起こる取引を完うするのであり、婦人ならば家政上のことを、いわば余儀なくさせらるるのである。ノルムは定規なりといったが、この定規は自己以外に、世人がわれわれに期待する業務の分量であり、してその分量は、同じ境遇にある普通の人が為しつつある分量であって、甲も乙も丙も丁もやり得るのだから誰れでもやるべきものと定められている分量である。俗にいう世間の勤めとはこのことをいうらしい。 ここで僕の心を苦しむることは右のごとく一定の職務とか地位とかが要求するのなら、ずいぶん明白に寸法に従って測り得るが、しかし俺は一人前の人間なりやというにいたっては、仕事をもって測るのでなく、思想をもって測るのではあるまいか。果たしてそうとすれば自分の心を測るノルムは果たしていかなるものなりや。またどこにありや。 もしノルムにして自己以外にあるものならんには、自分の勝手にならぬことは確実である。たとえば牛肉屋に行き、俺は人並みよりも大食であるといったからとて、一人前として五十匁なり六十匁なりを持っては来ない、私は小食ですと遠慮したとしても、一人前の注文すれば牛肉はやはり三十匁である。己れは碌な教育を受けなかったといったからとて、自分が一人前に足らぬ業をすれば世間は斟酌せぬ。私は最高教育を受けた者だといったからとて、一時の尊敬を受くるかは知らぬが、その人格にいかがわしきことがあれば、彼に対する尊敬は永続せぬ。学問は人並み以上でも人として果たして一人前なりや否やはおのずから別問題である。
現代語訳
ところが、この例について起こる疑問は、定規として用いた標準がみな自分以外にあることです。学生なら学校の規則と教師が求める学業を行うのであり、商売人なら他から持ち込まれる取引を全うするのであり、婦人なら家事のことを、いわば余儀なくさせられているのです。ノルムは定規だと言いましたが、この定規は自分以外にあって、世間の人が私たちに期待する業務の分量であり、その分量は、同じ境遇にある普通の人がやっている分量で、甲も乙も丙も丁もできるのだから誰でもやるべきものと定められている分量です。俗に言う世間の務めとはこのことでしょう。 ここで私の心を苦しめるのは、右のように一定の職務や地位が要求するのであれば、かなり明白に寸法に従って測れますが、しかし「自分は一人前の人間であるか」ということになると、仕事で測るのではなく、思想で測るのではないか、という点です。もしそうなら、自分の心を測るノルムは、いったいどういうものなのか。またどこにあるのか。 もしノルムが自分以外にあるものなら、自分の勝手にならないことは確かです。たとえば牛肉屋に行って、自分は人並みより大食いだと言ったところで、一人前として五十匁も六十匁も持ってはきません。小食ですと遠慮しても、一人前を注文すれば牛肉はやはり三十匁です。自分はろくな教育を受けなかったと言ったところで、自分が一人前に足りない仕事をすれば、世間は斟酌しません。自分は最高の教育を受けた者だと言っても、一時の尊敬は受けるかもしれませんが、その人格に怪しいところがあれば、彼への尊敬は長続きしません。学問が人並み以上でも、人として一人前かどうかは、おのずから別の問題です。
解説

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