自警録 / 第二章 一人前の人と一人前の仕事・一人前の人と一人前の業
この問題を提出したならば、何人もそれは国柄や年齢にもよろうし、社会の位地職業等にもよろう。五十歳の男と二十歳の青年と同一にこの問題に当つることは出来ぬというであろう。一人前の業を客観的に一定することが出来ればまことに気が楽であるが、とても諺にあるごとく、 「田舎の一升は江戸でも一升」 というわけにはゆくまい。僕もまた幾ぶんかそう思うけれども、二十歳の者なら二十歳の一人前並みであるか、丁稚奉公の職にあるものならば丁稚の一人前のことをなしたか、一国の宰相なら宰相として一人前の仕事をしたか。こういうように一人前なる意義をせまく取りてこの問題を解決せんとすれば、恐らく各自に解決が出来ると思う。しかしいかなる問題もこれを根本的に解決することは容易ならぬことである。ゆえに根本的でなくとも、一時的の解決にてもよかろうが、とにかく幾らか安心の出来るだけの解決はしたいものである。 自分は果たして一人前の仕事をなしたかというのと、自分は果たして一人前の人間であるやということとは、二つの問題であって、もちろんそのあいだに少なからざる差違がある。今しばらく仕事について愚説を述べてみよう。 一人前の仕事という分量は何人が定めるのか、これをきわめて具体的にわかりやすく譬えれば、学生の身なれば一日の一人前の仕事は授けられた学科を習得し、点数は百点に達しなくとも、七十点も取れれば一人前とみなされるであろう。商売人であればその日の取引を残らず結了することであり、一家の主婦なれば一日のあいだに為すべき掃除なり料理なりその他夫に対する義務、子供に対する世話をも首尾よく為しとげることであろう。右は一日の仕事をいったのであるが、これを一年を通じてその日その日の務めを完うし、ひいては終身これを継続せば、この人はたしかに一人前の仕事をした人で、天にも地にも人にも恥じぬ人であろう。古人の言のごとく、 「世に在ること一日ならば、一日の好人と做るを要す」 との心掛けを連日実行して、一生を貫けば、その人は実に好人である。
書き下し
この問題を提出したならば、何人もそれは国柄や年齢にもよろうし、社会の位地職業等にもよろう。五十歳の男と二十歳の青年と同一にこの問題に当つることは出来ぬというであろう。一人前の業を客観的に一定することが出来ればまことに気が楽であるが、とても諺にあるごとく、 「田舎の一升は江戸でも一升」 というわけにはゆくまい。僕もまた幾ぶんかそう思うけれども、二十歳の者なら二十歳の一人前並みであるか、丁稚奉公の職にあるものならば丁稚の一人前のことをなしたか、一国の宰相なら宰相として一人前の仕事をしたか。こういうように一人前なる意義をせまく取りてこの問題を解決せんとすれば、恐らく各自に解決が出来ると思う。しかしいかなる問題もこれを根本的に解決することは容易ならぬことである。ゆえに根本的でなくとも、一時的の解決にてもよかろうが、とにかく幾らか安心の出来るだけの解決はしたいものである。 自分は果たして一人前の仕事をなしたかというのと、自分は果たして一人前の人間であるやということとは、二つの問題であって、もちろんそのあいだに少なからざる差違がある。今しばらく仕事について愚説を述べてみよう。 一人前の仕事という分量は何人が定めるのか、これをきわめて具体的にわかりやすく譬えれば、学生の身なれば一日の一人前の仕事は授けられた学科を習得し、点数は百点に達しなくとも、七十点も取れれば一人前とみなされるであろう。商売人であればその日の取引を残らず結了することであり、一家の主婦なれば一日のあいだに為すべき掃除なり料理なりその他夫に対する義務、子供に対する世話をも首尾よく為しとげることであろう。右は一日の仕事をいったのであるが、これを一年を通じてその日その日の務めを完うし、ひいては終身これを継続せば、この人はたしかに一人前の仕事をした人で、天にも地にも人にも恥じぬ人であろう。古人の言のごとく、 「世に在ること一日ならば、一日の好人と做るを要す」 との心掛けを連日実行して、一生を貫けば、その人は実に好人である。
現代語訳
この問題を出せば、誰もが、それは国柄や年齢にもよるだろうし、社会的な地位や職業にもよるだろう、五十歳の男と二十歳の青年を同じにこの問題に当てはめることはできない、と言うでしょう。一人前の仕事を客観的に一つに決められれば本当に気が楽ですが、とても諺にあるように、 「田舎の一升は江戸でも一升」 というわけにはいきません。私もまたいくぶんかそう思いますが、二十歳の者なら二十歳の一人前並みであるか、丁稚奉公の身なら丁稚の一人前のことをなしたか、一国の宰相なら宰相として一人前の仕事をしたか、というように、一人前の意味を狭く取ってこの問題を解こうとすれば、おそらく各自に解決ができると思います。しかしどんな問題でも、根本的に解決することは容易ではありません。ですから、根本的でなくとも一時的な解決でもよいので、とにかくいくらか安心できるだけの解決はしたいものです。 自分ははたして一人前の仕事をしたかということと、自分ははたして一人前の人間であるかということとは、二つの問題であって、もちろんその間に少なからぬ差があります。今しばらく仕事について、愚見を述べてみましょう。 一人前の仕事の分量は誰が決めるのか、これをきわめて具体的に分かりやすく譬えれば、学生の身なら、一日の一人前の仕事は与えられた学科を習得することで、点数は百点に達しなくても、七十点も取れれば一人前と見なされるでしょう。商売人なら、その日の取引をすべて終えることであり、一家の主婦なら、一日のうちにやるべき掃除や料理、そのほか夫に対する務め、子どもに対する世話もうまくやり遂げることでしょう。以上は一日の仕事を言いましたが、これを一年を通じて毎日の務めを全うし、ひいては一生これを続ければ、この人は確かに一人前の仕事をした人で、天にも地にも人にも恥じない人でしょう。昔の人の言葉に、 「この世に一日あるなら、その一日は善い人となることが必要である」 とありますが、この心がけを毎日実行して一生を貫けば、その人はまことに善い人です。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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『呻吟語』内篇・應務・卑は恭を學ばず、貧は儉を學ばず謙忍は皆な尊に居るの道なり。儉樸は皆な富に居るの道なり。故に曰く、卑は恭を學ばず、貧は儉を學ばずと。
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孟子・離婁章句下曾子、武城に居る。越の寇有り。或ひと曰く、「寇至る、盍ぞ諸を去らざるや。」曰く、「人を我が室に寓し、其の薪木を毀傷すること無かれ。」寇退けば、則ち曰く、「我が牆屋を修めよ。我將に反らんとす。」寇退き、曾子反る。左右曰く、「先生を待つこと、此の如く其れ忠にして且つ敬なり。寇至れば、則ち先づ去りて以て民の望みを為し、寇退けば則ち反る。不可なるに殆(ちかい)し。」沈猶行曰く、「是れ汝の知る所に非ざるなり。昔、沈猶、負芻の禍い有り。先生に従う者七十人、未だ與ること有らず。」子思、衛に居る。齊の寇有り。或ひと曰く、「寇至る。盍そ諸を去らざるや。」子思曰く、「如し伋去らば、君誰と與にか守らん。」孟子曰く、「曾子・子思は道を同じくす。曾子は師なり、父兄也なり。子思は臣なり、微なり。曾子・子思、地を易うれば則ち皆然り。」
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『墨子』非儒下民を存す。是に於いて其の禮を厚くし、其の封を留め、敬して見るも其の道を問わず。孔丘、乃ち景公と晏子とに志怒し、乃ち鴟夷子を樹てて田常の門に及ぼし、南郭子に欲する所を為すを告げ、魯に歸る。頃有りて、齊の将に魯を伐たんとするを間き、子貢に告げて曰く、「賜や、大事を今の時に舉げん」と。乃ち子貢を齊に遣わし、南郭惠子に因りて以て田常に見え、之に吳を伐つを勸め、以て髙・國・鮑・晏を教え、田常の亂を害するを得ざらしめ、越に吳を伐つを勸む。三年の内、齊・吳、國を破るの難あり、伏尸は術數を以て言う。孔丘の誅なり。
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『学問のすゝめ』四編・学者の職分を論ず・利あらざるものは必ず害あり以上論ずるところを概すれば、今の世の学者、この国の独立を助けなさんとするに当たりて、政府の範囲に入り官にありて事をなすと、その範囲を脱して私立するとの利害得失を述べ、本論は私立に左袒したるものなり。すべて世の事物をくわしく論ずれば、利あらざるものは必ず害あり、得あらざるものは必ず失あり、利害得失相半ばするものはあるべからず。わが輩もとよりためにするところありて私立を主張するにあらず、ただ平生の所見を証してこれを論じたるのみ。世人もし確証を掲げてこの論説を排し、明らかに私立の不利を述ぶる者あらば、余輩は悦んでこれに従い、天下の害をなすことなかるべし。
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『呻吟語』内篇・應務・慎果の二字、明哲の二字士君子大事に當たる時、人に先んじて任ずるは、當に慎果の二字を知るべし。人に從ひて行ふは、當に明哲の二字を知るべし。明哲は難を避くるに非ず。事に裨無くして只だ自ら沒するのみなればなり。
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『後世への最大遺物』第二回・青年が青年らしくないことを書くなにゆえにつまらないかというに、あの雑誌のなかに名論卓説がないからつまらないというのではありません。あの雑誌のつまらないわけは、青年が青年らしくないことを書くからです。青年が学者の真似をして、つまらない議論をあっちからも引き抜き、こっちからも引き抜いて、それを鋏と糊とでくっつけたような論文を出すから読まないのです。もし青年が青年の心のままを書いてくれたならば、私はこれを大切にして、年の終りになったら立派に表装して、私の書函のなかのもっとも価値あるものとして遺しておきましょうと申しました。それからその雑誌はだいぶ改良されたようであります。それです、私は名論卓説を聴きたいのではない。