自警録 / 第二章 一人前の人と一人前の仕事・職業上の一人前と全人としての一人前(1)
故に人を測るについて、目方をもって某は何貫ときめることは出来る。丈をもってして某は何尺何寸と定むることも出来る。そしてこの人の貫目、あの人の身長は人並みとか人並み以上とかまたは以下と判断することも出来る。それと同じく無形なることについても学問は人並み以上とか、談話は人並み以下とか、思想は人並み優れて高いとか低いとか、かく別々に測ることは出来る。こういう体格、知力、才能は根底において相互に関係があるかも知れぬ。たとえば英国の王立学士院では英国一流の学者を網羅してあるが、彼らの寸尺貫目を測ると平均人よりはるかに以上に当たっている。この点より推測すると学問の出来るものは脳髄もよい。脳髄のよい者は体格も偉大にして肉附もよく大きいという関係があるかも知れぬ。 しかし必ずしもそうとは断言されぬ。ナポレオンのごとく一代の豪傑にして身長の低い者もある。ことに学者中には頭脳の透明鋭利な者にして肉体のこれに伴わぬものがたくさんある。ゆえに人の力を種々に区別し、そしていずれの力では人並み以上とか以下とか、個々別々に離すことは案外たやすいことで、また普通に行わるる方法である。専門家が世人よりたっとばるるのもこれがためである。 専門家というもあながち学問に限るのでない。いかなる芸、いかなる職業においてもある一方面に練習を加え優れた者は世に貢献することが多い。その専門の道については、たしかに普通人の標準に比し一人前以上の仕事する人である。前に述べた芸人などの例はもっとも能く当たることであるが、これはいわば人を幾多の片に切り、そのもっとも長じた所を一般的ノルムで測るのである。
書き下し
故に人を測るについて、目方をもって某は何貫ときめることは出来る。丈をもってして某は何尺何寸と定むることも出来る。そしてこの人の貫目、あの人の身長は人並みとか人並み以上とかまたは以下と判断することも出来る。それと同じく無形なることについても学問は人並み以上とか、談話は人並み以下とか、思想は人並み優れて高いとか低いとか、かく別々に測ることは出来る。こういう体格、知力、才能は根底において相互に関係があるかも知れぬ。たとえば英国の王立学士院では英国一流の学者を網羅してあるが、彼らの寸尺貫目を測ると平均人よりはるかに以上に当たっている。この点より推測すると学問の出来るものは脳髄もよい。脳髄のよい者は体格も偉大にして肉附もよく大きいという関係があるかも知れぬ。 しかし必ずしもそうとは断言されぬ。ナポレオンのごとく一代の豪傑にして身長の低い者もある。ことに学者中には頭脳の透明鋭利な者にして肉体のこれに伴わぬものがたくさんある。ゆえに人の力を種々に区別し、そしていずれの力では人並み以上とか以下とか、個々別々に離すことは案外たやすいことで、また普通に行わるる方法である。専門家が世人よりたっとばるるのもこれがためである。 専門家というもあながち学問に限るのでない。いかなる芸、いかなる職業においてもある一方面に練習を加え優れた者は世に貢献することが多い。その専門の道については、たしかに普通人の標準に比し一人前以上の仕事する人である。前に述べた芸人などの例はもっとも能く当たることであるが、これはいわば人を幾多の片に切り、そのもっとも長じた所を一般的ノルムで測るのである。
現代語訳
人を測るには、目方で「あの人は何貫」と決めることができます。丈で「あの人は何尺何寸」と定めることもできます。そしてこの人の目方、あの人の身長は人並みだとか、人並み以上、または以下だと判断することもできます。それと同じく、形のないことについても、学問は人並み以上とか、話術は人並み以下とか、思想は人並み優れて高いとか低いとか、こうして別々に測ることはできます。こうした体格、知力、才能は、根底では互いに関係があるかもしれません。たとえば英国の王立学士院には英国一流の学者が集まっていますが、彼らの寸尺や目方を測ると、平均的な人よりはるかに上回っています。この点から推測すると、学問のできる者は脳もよく、脳のよい者は体格も立派で肉づきもよいという関係があるかもしれません。 しかし必ずしもそうとは言いきれません。ナポレオンのように一代の豪傑でも身長の低い人がいます。ことに学者のなかには、頭脳が透明で鋭いのに肉体がこれに伴わない人がたくさんいます。ですから、人の力をいろいろに区別し、どの力では人並み以上、どの力では以下と、個々別々に分けることは案外たやすく、また普通に行われる方法です。専門家が世の人から尊ばれるのもこのためです。 専門家といっても、必ずしも学問に限りません。どんな芸、どんな職業でも、ある一方面に練習を重ねて優れた者は、世に貢献することが多い。その専門の道については、確かに普通の人の標準に比べて一人前以上の仕事をする人です。前に述べた芸人などの例は最もよく当たることですが、これはいわば、人を幾つもの片に切って、その最も優れた部分を一般のノルムで測るのです。
解説

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自警録・第二章 一人前の人と一人前の仕事・要は人は業なり(1)かくいったからとて僕は専門に集中することをやめて、人間一人並みになるには、あれも少し、これも少しと音楽も商売も政治も踊も大弓もやれというにはあらぬ。仕事するにはよろしく専門的であるべしと僕は確信している。堂に昇らばよろしく室にも入るを要する。しかして甲がその専門についてある点まで上達すれば、乙がまた他の専門についてある点に達するに比べて専門がいかに違っても、各自の造詣は深さ高さによりて測り、たしかに某は何の道においては人並み以上なりということが出来る。もしかくのごとき人にしてたとい非倫のことを為したとしても、その人はやはり専門については一人前の分をなしたものといわねばならぬ。しかるにこの人は果たして人として一人並みであるや否やにいたっては疑問であるといわねばならぬ。 しからば一人前の人となるのと、一人前の仕事をするのとはまったく別であろうか。人としては不具者であるも、仕事をして衆に優れたならば、それで甘んじて死すべきか。この問題になるとおそらく人々の考えに大分の相違があるであろう。今日のごとく功利的思想のさかんなる時代においては、人となりは一人前ならなくとも、仕事の効果さえ挙ぐるを得ば人として生まれ来た甲斐ありと信じ、仕事に重きを置いて人となりを顧みぬであろうが、しかし真に偉大なる効果を挙ぐる仕事師は、その人格においても人並み以上たらねばならぬことがだんだんに分かって来はせぬか。 「文は人なり」 というが、人格を示すもの豈に独り文のみならんやで、政治も人なり、実業も人なり、学問も人なり、人を措いては事もなく業もない。一人前の仕事を為し遂げんと欲する者はあらかじめ一人前の人となることを心がくべきものと思う。一人前の仕事さえ出来れば、一人前の人なりとは断定し難きものでなかろうかとは、僕の常に疑うところである。 これを譬えていえば、ここに数多の器があるとする。これらの器――仮りに徳利とすればその仕事は水を入れるにある。そしていずれもその容積は異なっている。大きいものは一石も容るれば小さきものは一勺も容れ得ぬ。しかしいかに小なるも玩具にあらざる限りは、皆ひとかどの徳利と称する。ただ何の実用にもならぬほど小さければ徳利一本といわずに玩具一つと呼び做す。してみれば徳利の徳利たる所以はある最小限以上の容積すなわち分量すなわち仕事にあると思わるれども、分量の多寡には大差がある。人も同じく多数の者が同種類の仕事に従事していても、仕事の能率の上に非常なる差があっても、白痴でなければ、みな一人前と算えらるるであろう。
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自警録・第二章 一人前の人と一人前の仕事・職業上の一人前と全人としての一人前(2)しかるに専門家中には、その専門に熱中し、他の天稟の力を発達せしめない者がたくさんある。その怠りたる力をもって測れば遠くノルムに及ばぬ者も間々ある。すなわちかかる人は全人として見れば一人前に足らぬ人である。己れの職業については一人前の仕事をしたと称するも、人としては一人前の人ならぬ人が多い。学者などのうちにはほとんど人間失格者のごとき人がある。自分の専門の範囲については大家であるが、人間としてはまったく成っておらぬ場合も往々ある。むかし孔子は、 「君子は器ならず」 といったが、学者はとかく器械化しやすい。ゆえに、世俗の人がややもすれば学者をぼんやりした人間失格者のごとくいう。しかし実地家の中にも同じ過ちに陥るものが多い。すなわち実業家と称する人の中には自分の商売を進むるに鋭く、その成功のためにはほとんど人倫を紊すも恬として恥じざるのみか、かえってこれを誇りとするがごとき人をしばしば見受ける。かかる風あるものは人間失格者としか思われぬ。 おそらく人間として平均の調和を失えるものは、学者よりも実業家にかえって多いかと思われる。譬えていえば、人の腕は身幹に比して何分とか、たいてい一定した割合がある。この割合を越えても不具であり、不足しても不具である。いわゆる世の実務家あるいは実業家などには手の長過ぎる人があるとすれば、学者間に短か過ぎる人のあると同然、両者ともに不具なりとの譏はまぬがれまい。
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自警録・第二章 一人前の人と一人前の仕事・一人前とは何を標準とした言葉か永き過去を持たぬ人にも、自己の身の上を反省し、もって将来のことを計るのは、折々あることであろう。まして一生の旅路の坂を下りかけた人にはしばしばある。ゆえにこれは老若を問わず誰しも経験あることと信ずる。凡人の習いと言わんか、僕もこの例に違わず四十歳前後のころよりしばしば、 「己れは一人前の仕事を為したであろうか」 を自問した。しかしてこの問題の起こると同時に起こる疑問は、そもそも一人前というはいかなる量を指すかということである。 一人前、一人分、一と通り、人並、十人並、男一匹の任務などいう言葉はわれわれのつねに聞くところである。なかんずく一人前という言葉は種々の場合に応用されている。反物一反あれば一人前の衣服が出来る。五合の米があれば人間一人の一日の生命をつなげる。 独立の生活を営み得るだけの芸術を習得すれば、一人前の芸人となる。 料理屋で飯を注文すれば一合二、三勺を一人前という。 牛肉屋に肉を注文すれば二十五匁より三十五匁までをもって一人前とする。 一人前に対してかくのごとき標準を設けたのは何より起こったのであるか。 四尺に足らぬ小男にも、六尺ちかい大兵にも、一反の反物をもって不足もしなければあまりもせぬ。もっとも仕立の方法によりてはいかようにもなし得られる。特別の理由あるにあらざれば、丈の長短を斟酌せず一人前は一反と定めてある。 また小食の人も健啖家も、肉を注文すれば同じ分量を授けられる。ほとんど個性を無視して男一匹の食物は何合、衣類は何尺と、一人前なる分量が定まっている。して、この分量は数学的に割り出したのではない。 日本には何尺の反物が出来る。これを人口に割り当てて一人前は何尺としたのでなく、また消費の額を精算して、日本人は春夏秋冬を通じて衣服は何枚要るかから割り出したものでもない。 それと同じく人の容貌を評するにも、よく十人並という言葉を使う。これはすなわち美醜の一人前という意味であるが、美醜の割り出しなどは、眼鼻や顔形の寸法を計って出来得るものでない。まして芸などについては算盤にかけることは絶対的に不可能のことである。 これによりてこれを見れば一人前あるいは一人分と称するは、統計学者が平均人と称するものとはだいぶ趣を異にしているように思う。
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自警録・第二章 一人前の人と一人前の仕事・一人前の人と一人前の業この問題を提出したならば、何人もそれは国柄や年齢にもよろうし、社会の位地職業等にもよろう。五十歳の男と二十歳の青年と同一にこの問題に当つることは出来ぬというであろう。一人前の業を客観的に一定することが出来ればまことに気が楽であるが、とても諺にあるごとく、 「田舎の一升は江戸でも一升」 というわけにはゆくまい。僕もまた幾ぶんかそう思うけれども、二十歳の者なら二十歳の一人前並みであるか、丁稚奉公の職にあるものならば丁稚の一人前のことをなしたか、一国の宰相なら宰相として一人前の仕事をしたか。こういうように一人前なる意義をせまく取りてこの問題を解決せんとすれば、恐らく各自に解決が出来ると思う。しかしいかなる問題もこれを根本的に解決することは容易ならぬことである。ゆえに根本的でなくとも、一時的の解決にてもよかろうが、とにかく幾らか安心の出来るだけの解決はしたいものである。 自分は果たして一人前の仕事をなしたかというのと、自分は果たして一人前の人間であるやということとは、二つの問題であって、もちろんそのあいだに少なからざる差違がある。今しばらく仕事について愚説を述べてみよう。 一人前の仕事という分量は何人が定めるのか、これをきわめて具体的にわかりやすく譬えれば、学生の身なれば一日の一人前の仕事は授けられた学科を習得し、点数は百点に達しなくとも、七十点も取れれば一人前とみなされるであろう。商売人であればその日の取引を残らず結了することであり、一家の主婦なれば一日のあいだに為すべき掃除なり料理なりその他夫に対する義務、子供に対する世話をも首尾よく為しとげることであろう。右は一日の仕事をいったのであるが、これを一年を通じてその日その日の務めを完うし、ひいては終身これを継続せば、この人はたしかに一人前の仕事をした人で、天にも地にも人にも恥じぬ人であろう。古人の言のごとく、 「世に在ること一日ならば、一日の好人と做るを要す」 との心掛けを連日実行して、一生を貫けば、その人は実に好人である。
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自警録・第二章 一人前の人と一人前の仕事・測る標準は内にあるか外にあるかしかるにこの例について起こる疑問は、定規として用いた標準はみな自己以外にあることである。学生ならば学校の規則と教師の要求する業務を行うのである。商売人ならば他より起こる取引を完うするのであり、婦人ならば家政上のことを、いわば余儀なくさせらるるのである。ノルムは定規なりといったが、この定規は自己以外に、世人がわれわれに期待する業務の分量であり、してその分量は、同じ境遇にある普通の人が為しつつある分量であって、甲も乙も丙も丁もやり得るのだから誰れでもやるべきものと定められている分量である。俗にいう世間の勤めとはこのことをいうらしい。 ここで僕の心を苦しむることは右のごとく一定の職務とか地位とかが要求するのなら、ずいぶん明白に寸法に従って測り得るが、しかし俺は一人前の人間なりやというにいたっては、仕事をもって測るのでなく、思想をもって測るのではあるまいか。果たしてそうとすれば自分の心を測るノルムは果たしていかなるものなりや。またどこにありや。 もしノルムにして自己以外にあるものならんには、自分の勝手にならぬことは確実である。たとえば牛肉屋に行き、俺は人並みよりも大食であるといったからとて、一人前として五十匁なり六十匁なりを持っては来ない、私は小食ですと遠慮したとしても、一人前の注文すれば牛肉はやはり三十匁である。己れは碌な教育を受けなかったといったからとて、自分が一人前に足らぬ業をすれば世間は斟酌せぬ。私は最高教育を受けた者だといったからとて、一時の尊敬を受くるかは知らぬが、その人格にいかがわしきことがあれば、彼に対する尊敬は永続せぬ。学問は人並み以上でも人として果たして一人前なりや否やはおのずから別問題である。
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自警録・第二章 一人前の人と一人前の仕事・要は人は業なり(2)しかるにここに大いに考うべき一条は各自が果たして各自の容積いっぱいに水を含めるや否やの問題である。四斗樽大を備えても空なれば四升樽にも劣る。二合徳利でもいっぱいに満つれば一斗入りの空徳利に優さる。人もどれほど「王佐棟梁」の才であっても、これを利用もせず懶惰に日を送れば、小技小能なるいわゆる「斗筲の人」で正直に努める者に比して、一人前と称しがたく、ただ大なる「行尸走肉」たるに過ぎぬ。してみれば一人前の仕事とは各自がめいめい天賦の才能と力量のあらん限りを尽すことであろう。果たしてそうとすれば一人前の仕事を計る基準は当事者めいめいに存在するもので、己れ以外に求むべきものでなかろう。すなわち己れの仕事を計るものは己れ自身である。英国の大詩人テニソンの句に、 Self-reverence, self-knowledge, self-control, ―― These three alone lead life to sovereign power. (自尊、自知、自治の三路は、一生を導いて王者の位に達せしむるなり) と。太古ギリシアの神託に、 「己れを知れ」 とありしは自己の性質能力を覚り、もって自己の使命の何たるを認識することで、世には人を知らざるを患うる者がある。人の己れを知らざるを患うる者はさらに多いが、己れを知らざるを患うる者ははなはだ少ない。 冒頭にいうがごとく僕は永く自分の身に顧みて、我は果たして一人前の仕事を為し終えたるか、我は果たして一人前の人となりしかという問題について、いささか所感を述べたが、これが解決は遺憾ながらいまだ述ぶることは出来ぬ。恐らくは何人といえども、己が身に顧みてこの問題を提出したならば、確固たる答えを為し得るものはあるまいと思う。もし為し得る人があるとすればもって世人に示して欲しい。僕がここに自分の迷いの径路を述べたのは、同じ問題に苦しめる人の参考に供したいからである。