自警録 / 第二章 一人前の人と一人前の仕事・一人前と統計学者のいうノルム
大槻先生はその著『言海』において、人並みという言葉を説明して、世の常の人の列なること、尋常と説いている。これをもって見ても人並みまたは一人前ということが平均とは違うことがわかる。統計学者がよく用うる言葉にノルム(norm)というがある。通常これを標準、規範、型などと訳しているけれども、この訳語にては他の文字と混同する虞があるから、僕は原語のままにノルムという字を用いたいと思う。ノルムはその語原を調べると大工の使用する物指すなわち定規である。この定規に適ったものがノルム的すなわち英語にいうノーマル(normal)である。一人前の人というのはノルムで測って不足なき人をいうので、すなわち常識的に言わば肉眼鑑定で見て、まずまず一ととおり具備わっているものを指していうのであろう。未開国なら未開国相応に風俗・習慣・智能・信仰があって、これに応ずる態度がある。 これすなわちその国のノルムに適うというべきものである。もしこのノルムに達し得なければ、その人は社会の一員として取扱われぬ不幸に陥る。ゆえに同じ国人のうちでも精神薄弱児とか精神異常者を測ればノルムに適わぬ。 ノルムと平均とを同じように用いても差し支えないこともあろうが、平均は実在的現象を測るもので、ノルムは実際経験の後、誰れいうとなく、十目が見、十指が指して、一種の理想的標準を設け、物を測定するに用うるものであると思う。老子の有名なる語に、 「道の道とすべきは常の道にあらず」と。 これは種々に解釈されるが、平均とノルムとをもってしても解釈の一法となし得はせぬか。人が普通に道というのは実測上のすなわち平均の道というので、常の道というのはノーマルの道をいうのであろう。さすれば同じく平均だけの仕事をするものをもって一人前の任務を終えたものとみなすことが出来ようか。僕はかくのごとき問題で長く頭脳を痛めたが、恥ずかしいことにはこれを自己に応用して問題を解決し得なかった。しかしてこれは今もなお出来たとは断言しがたい。
書き下し
大槻先生はその著『言海』において、人並みという言葉を説明して、世の常の人の列なること、尋常と説いている。これをもって見ても人並みまたは一人前ということが平均とは違うことがわかる。統計学者がよく用うる言葉にノルム(norm)というがある。通常これを標準、規範、型などと訳しているけれども、この訳語にては他の文字と混同する虞があるから、僕は原語のままにノルムという字を用いたいと思う。ノルムはその語原を調べると大工の使用する物指すなわち定規である。この定規に適ったものがノルム的すなわち英語にいうノーマル(normal)である。一人前の人というのはノルムで測って不足なき人をいうので、すなわち常識的に言わば肉眼鑑定で見て、まずまず一ととおり具備わっているものを指していうのであろう。未開国なら未開国相応に風俗・習慣・智能・信仰があって、これに応ずる態度がある。 これすなわちその国のノルムに適うというべきものである。もしこのノルムに達し得なければ、その人は社会の一員として取扱われぬ不幸に陥る。ゆえに同じ国人のうちでも精神薄弱児とか精神異常者を測ればノルムに適わぬ。 ノルムと平均とを同じように用いても差し支えないこともあろうが、平均は実在的現象を測るもので、ノルムは実際経験の後、誰れいうとなく、十目が見、十指が指して、一種の理想的標準を設け、物を測定するに用うるものであると思う。老子の有名なる語に、 「道の道とすべきは常の道にあらず」と。 これは種々に解釈されるが、平均とノルムとをもってしても解釈の一法となし得はせぬか。人が普通に道というのは実測上のすなわち平均の道というので、常の道というのはノーマルの道をいうのであろう。さすれば同じく平均だけの仕事をするものをもって一人前の任務を終えたものとみなすことが出来ようか。僕はかくのごとき問題で長く頭脳を痛めたが、恥ずかしいことにはこれを自己に応用して問題を解決し得なかった。しかしてこれは今もなお出来たとは断言しがたい。
現代語訳
大槻先生はその著『言海』で、「人並み」という言葉を、世の常の人の列に並ぶこと、尋常、と説明しています。これを見ても、人並みあるいは一人前ということが、平均とは違うことがわかります。統計学者がよく使う言葉に「ノルム」(norm)があります。普通は標準、規範、型などと訳しますが、この訳語では他の文字と混同するおそれがあるので、私は原語のままノルムという語を使いたいと思います。ノルムは語源を調べると、大工が使う物差し、つまり定規です。この定規に適うものがノルム的、つまり英語のノーマル(normal)です。一人前の人というのは、ノルムで測って不足のない人のことで、常識的に言えば目で見て、まずまずひととおり備わっている人を指して言うのでしょう。未開の国なら未開の国なりに風俗・習慣・知能・信仰があり、これに応じた態度があります。 これこそ、その国のノルムに適うというべきものです。もしこのノルムに達することができなければ、その人は社会の一員として扱われない不幸に陥ります。ですから、同じ国の人のうちでも、精神薄弱児とか精神異常者は、ノルムで測れば適いません。 ノルムと平均とを同じように使っても差し支えない場合もあるでしょうが、平均は実在する現象を測るもので、ノルムは実際の経験のあと、誰が言うともなく、多くの人の目が見、多くの指が指して、ある種の理想的な標準を設け、物を測るのに用いるものだと思います。老子の有名な言葉に、 「道として語れる道は、常の道ではない」 とあります。 これはいろいろに解釈されますが、平均とノルムとをもって解釈する一つの方法にならないでしょうか。人が普通に道と言うのは実測上の、つまり平均の道ということで、「常の道」というのはノーマルの道を言うのでしょう。そうだとすると、平均だけの仕事をする者をもって、一人前の任務を終えた者と見なすことができるでしょうか。私はこの種の問題で長く頭を痛めましたが、恥ずかしいことに、これを自分に当てはめて解決することができませんでした。そしてこれは今もなお、できたとは断言しがたいのです。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『墨子』節用上然れども人も倍す可きこと有るなり。昔、聖王、法を為りて曰く、「丈夫、年二十にして、敢えて家に處らざる毋かれ。女子、年十五にして、敢えて人に事えざる毋かれ」と。此れ聖王の法なり。聖王、既に沒して、民の次に於てす。其の蚤く家に處らんと欲する者は、二十年にして家に處る所有り。其の晩く家に處らんと欲する者は、四十年にして家に處る所有り。其の蚤きと其の晩きとを以て相い踐めば、後れて聖王の法に十年なり。若し純ら三年にして字めば、子の生まるること以て二三を計る可し。此れ惟だ民をして蚤く家に處らしめずして、以て倍す可きか。且つ然らざるのみ。
-
『学問のすゝめ』四編・学者の職分を論ず・政府は生力、人民は刺衝すべて物を維持するには力の平均なかるべからず。譬えば人身のごとし。これを健康に保たんとするには、飲食なかるべからず、大気、光線なかるべからず、寒熱、痛痒、外より刺衝して内よりこれに応じ、もって一身の働きを調和するなり。今にわかにこの外物の刺衝を去り、ただ生力の働くところにまかしてこれを放頓することあらば、人身の健康は一日も保つべからず。国もまた然り。政は一国の働きなり。この働きを調和して国の独立を保たんとするには、内に政府の力あり、外に人民の力あり、内外相応じてその力を平均せざるべからず。ゆえに政府はなお生力のごとく、人民はなお外物の刺衝のごとし。今にわかにこの刺衝を去り、ただ政府の働くところにまかしてこれを放頓することあらば、国の独立は一日も保つべからず。いやしくも人身窮理の義を明らかにし、その定則をもって一国経済の議論に施すことを知る者は、この理を疑うことなかるべし。
-
『韓非子』難勢第四十吾が勢を言うを為す所以の者は、中なり。中は、上は堯・舜に及ばずして、下は亦た桀・紂為らず。法を抱き勢に處らば則ち治まり、法に背き勢を去らば則ち亂る。
-
自警録・第二章 一人前の人と一人前の仕事・測る標準は内にあるか外にあるかしかるにこの例について起こる疑問は、定規として用いた標準はみな自己以外にあることである。学生ならば学校の規則と教師の要求する業務を行うのである。商売人ならば他より起こる取引を完うするのであり、婦人ならば家政上のことを、いわば余儀なくさせらるるのである。ノルムは定規なりといったが、この定規は自己以外に、世人がわれわれに期待する業務の分量であり、してその分量は、同じ境遇にある普通の人が為しつつある分量であって、甲も乙も丙も丁もやり得るのだから誰れでもやるべきものと定められている分量である。俗にいう世間の勤めとはこのことをいうらしい。 ここで僕の心を苦しむることは右のごとく一定の職務とか地位とかが要求するのなら、ずいぶん明白に寸法に従って測り得るが、しかし俺は一人前の人間なりやというにいたっては、仕事をもって測るのでなく、思想をもって測るのではあるまいか。果たしてそうとすれば自分の心を測るノルムは果たしていかなるものなりや。またどこにありや。 もしノルムにして自己以外にあるものならんには、自分の勝手にならぬことは確実である。たとえば牛肉屋に行き、俺は人並みよりも大食であるといったからとて、一人前として五十匁なり六十匁なりを持っては来ない、私は小食ですと遠慮したとしても、一人前の注文すれば牛肉はやはり三十匁である。己れは碌な教育を受けなかったといったからとて、自分が一人前に足らぬ業をすれば世間は斟酌せぬ。私は最高教育を受けた者だといったからとて、一時の尊敬を受くるかは知らぬが、その人格にいかがわしきことがあれば、彼に対する尊敬は永続せぬ。学問は人並み以上でも人として果たして一人前なりや否やはおのずから別問題である。
-
自警録・第二章 一人前の人と一人前の仕事・一人前とは何を標準とした言葉か永き過去を持たぬ人にも、自己の身の上を反省し、もって将来のことを計るのは、折々あることであろう。まして一生の旅路の坂を下りかけた人にはしばしばある。ゆえにこれは老若を問わず誰しも経験あることと信ずる。凡人の習いと言わんか、僕もこの例に違わず四十歳前後のころよりしばしば、 「己れは一人前の仕事を為したであろうか」 を自問した。しかしてこの問題の起こると同時に起こる疑問は、そもそも一人前というはいかなる量を指すかということである。 一人前、一人分、一と通り、人並、十人並、男一匹の任務などいう言葉はわれわれのつねに聞くところである。なかんずく一人前という言葉は種々の場合に応用されている。反物一反あれば一人前の衣服が出来る。五合の米があれば人間一人の一日の生命をつなげる。 独立の生活を営み得るだけの芸術を習得すれば、一人前の芸人となる。 料理屋で飯を注文すれば一合二、三勺を一人前という。 牛肉屋に肉を注文すれば二十五匁より三十五匁までをもって一人前とする。 一人前に対してかくのごとき標準を設けたのは何より起こったのであるか。 四尺に足らぬ小男にも、六尺ちかい大兵にも、一反の反物をもって不足もしなければあまりもせぬ。もっとも仕立の方法によりてはいかようにもなし得られる。特別の理由あるにあらざれば、丈の長短を斟酌せず一人前は一反と定めてある。 また小食の人も健啖家も、肉を注文すれば同じ分量を授けられる。ほとんど個性を無視して男一匹の食物は何合、衣類は何尺と、一人前なる分量が定まっている。して、この分量は数学的に割り出したのではない。 日本には何尺の反物が出来る。これを人口に割り当てて一人前は何尺としたのでなく、また消費の額を精算して、日本人は春夏秋冬を通じて衣服は何枚要るかから割り出したものでもない。 それと同じく人の容貌を評するにも、よく十人並という言葉を使う。これはすなわち美醜の一人前という意味であるが、美醜の割り出しなどは、眼鼻や顔形の寸法を計って出来得るものでない。まして芸などについては算盤にかけることは絶対的に不可能のことである。 これによりてこれを見れば一人前あるいは一人分と称するは、統計学者が平均人と称するものとはだいぶ趣を異にしているように思う。
-
自警録・第二章 一人前の人と一人前の仕事・一人前の人と一人前の業この問題を提出したならば、何人もそれは国柄や年齢にもよろうし、社会の位地職業等にもよろう。五十歳の男と二十歳の青年と同一にこの問題に当つることは出来ぬというであろう。一人前の業を客観的に一定することが出来ればまことに気が楽であるが、とても諺にあるごとく、 「田舎の一升は江戸でも一升」 というわけにはゆくまい。僕もまた幾ぶんかそう思うけれども、二十歳の者なら二十歳の一人前並みであるか、丁稚奉公の職にあるものならば丁稚の一人前のことをなしたか、一国の宰相なら宰相として一人前の仕事をしたか。こういうように一人前なる意義をせまく取りてこの問題を解決せんとすれば、恐らく各自に解決が出来ると思う。しかしいかなる問題もこれを根本的に解決することは容易ならぬことである。ゆえに根本的でなくとも、一時的の解決にてもよかろうが、とにかく幾らか安心の出来るだけの解決はしたいものである。 自分は果たして一人前の仕事をなしたかというのと、自分は果たして一人前の人間であるやということとは、二つの問題であって、もちろんそのあいだに少なからざる差違がある。今しばらく仕事について愚説を述べてみよう。 一人前の仕事という分量は何人が定めるのか、これをきわめて具体的にわかりやすく譬えれば、学生の身なれば一日の一人前の仕事は授けられた学科を習得し、点数は百点に達しなくとも、七十点も取れれば一人前とみなされるであろう。商売人であればその日の取引を残らず結了することであり、一家の主婦なれば一日のあいだに為すべき掃除なり料理なりその他夫に対する義務、子供に対する世話をも首尾よく為しとげることであろう。右は一日の仕事をいったのであるが、これを一年を通じてその日その日の務めを完うし、ひいては終身これを継続せば、この人はたしかに一人前の仕事をした人で、天にも地にも人にも恥じぬ人であろう。古人の言のごとく、 「世に在ること一日ならば、一日の好人と做るを要す」 との心掛けを連日実行して、一生を貫けば、その人は実に好人である。