自警録 / 第一章 男一匹・男一匹には判断実力の力が要る
思慮のただ胸中にあるのみにては、まだ男性の資格を充分に発揮したとは言い難い。なんとなれば男性の特性は活動にある。働きかけすなわち能動は男性的にして、女子は受け身である。また男子の働きは外部に現るるを誉とするも、女子の働きは内助にある。しかしてこの内助はただに一家のうちの意味にとどまらずして、心のうちの助けの意味とも解すべきであると思う。 ゆえに一家に事あり、これに処するは男子の任であるが、その動機はあるいは女性に起こることが少なくない。 キングスレーの詩に、 Men must work and women must weep. (かせがにゃならぬ男の身、泣かにゃならぬ女の身) という一句がある。詮じつめれば男子の力は思慮に止まらでこれを判断し、しかしてこれを実行するにある。女子の力は判断するについてははなはだ弱い。しかし思慮するに参考とすべき種々の観察を下し、あるいはこれが材料を集むることは決して男子に劣るものでない。 かつてある学者の言に男子の脳髄は帰納的なるも、女子は演繹的なりとあったが、女子は感情が勝っているから冷静に事物に接することが難い。しかし感情の力をもって事物を観察すれば、理性によりて発見しえざることがらを、往々にして発見することがある。昔の男一匹は動物的に猛勇を揮うを特性としたとはいいながら、なおかつ当時においても女子よりは思慮と判断の力が優れていたであろう。 こんにちの男一匹は、文化の進歩とともに昔時のごとき蛮勇の必要はいちじるしく減少したけれども、思慮と判断力とにおいて多々ますます進むにあらざれば、男一匹として女子に優るの理由を失うにいたる。
書き下し
思慮のただ胸中にあるのみにては、まだ男性の資格を充分に発揮したとは言い難い。なんとなれば男性の特性は活動にある。働きかけすなわち能動は男性的にして、女子は受け身である。また男子の働きは外部に現るるを誉とするも、女子の働きは内助にある。しかしてこの内助はただに一家のうちの意味にとどまらずして、心のうちの助けの意味とも解すべきであると思う。 ゆえに一家に事あり、これに処するは男子の任であるが、その動機はあるいは女性に起こることが少なくない。 キングスレーの詩に、 Men must work and women must weep. (かせがにゃならぬ男の身、泣かにゃならぬ女の身) という一句がある。詮じつめれば男子の力は思慮に止まらでこれを判断し、しかしてこれを実行するにある。女子の力は判断するについてははなはだ弱い。しかし思慮するに参考とすべき種々の観察を下し、あるいはこれが材料を集むることは決して男子に劣るものでない。 かつてある学者の言に男子の脳髄は帰納的なるも、女子は演繹的なりとあったが、女子は感情が勝っているから冷静に事物に接することが難い。しかし感情の力をもって事物を観察すれば、理性によりて発見しえざることがらを、往々にして発見することがある。昔の男一匹は動物的に猛勇を揮うを特性としたとはいいながら、なおかつ当時においても女子よりは思慮と判断の力が優れていたであろう。 こんにちの男一匹は、文化の進歩とともに昔時のごとき蛮勇の必要はいちじるしく減少したけれども、思慮と判断力とにおいて多々ますます進むにあらざれば、男一匹として女子に優るの理由を失うにいたる。
現代語訳
思慮がただ胸のうちにあるだけでは、まだ男性の資格を十分に発揮したとは言いにくい。なぜなら、男性の特性は活動にあるからです。働きかけること、つまり能動は男性的であり、女子は受け身です。また男子の働きは外に現れることを誉れとするのに対し、女子の働きは内助にあります。そしてこの内助は、ただ一家のうちという意味にとどまらず、心のうちの助けという意味にも解すべきだと思います。 ですから、一家に事があり、これに対処するのは男子の任ですが、その動機は女性から起こることが少なくありません。 キングスレーの詩に、 Men must work and women must weep. (かせがにゃならぬ男の身、泣かにゃならぬ女の身) という一句があります。つきつめれば、男子の力は思慮にとどまらず、それを判断し、実行するところにあります。女子の力は判断するという点ではたいへん弱い。しかし思慮するための参考となる種々の観察を行い、その材料を集めることでは、決して男子に劣りません。 かつてある学者が、男子の脳は帰納的であり、女子は演繹的だと言いましたが、女子は感情が勝っているので冷静に物事に接することが難しい。しかし感情の力で物事を観察すると、理性では発見できないことを、しばしば発見します。昔の男一匹は、動物的に猛勇を振るうことを特性としたとはいえ、それでもその当時において、女子よりは思慮と判断の力が優れていたでしょう。 今日の男一匹は、文化の進歩とともに昔のような蛮勇の必要は著しく減りましたが、思慮と判断力においてますます進まなければ、男一匹として女子に優る理由を失うことになります。
解説

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