自警録 / 第一章 男一匹・女なる言葉に含まれた道徳的意味(1)
この人間のうちには男もあれば女もある。しかして「女」なる言葉はその用うる場合により、「人」の場合と同じく、善悪両様の意味を別々に含ませている。むろん男のことを「女らしい」というときは、十に八、九まで誹謗する意旨であるが、しかし女自身に使用するときでも、おもしろからぬ意味を諷することはしばしば見るところである。 たとえば、 「女子と小人は養い難し」 という場合、単に女子という文字だけにてはさらに善悪の意を含んでおらぬが、小人という語と結びあわせると、女子を卑下する心持が現れている。ちょっと普通行わるる諺を見ても、 「どうせ女の事だもの」 「家の乱は女から」 「七人の子は生すとも女に心を許すな」 「大蛇を見るとも女人を見るべからず」 などと女に関する悪口がたくさんある。畢竟いかに男子が自己の愚より婦人に迷ったかを自白するに過ぎぬ。ことに漢字では女の字を偏または旁に含めるものは、むろん善意を含めることなきにあらざるも、多くの場合むしろ悪意を含ましている。 たとえば女を三字集めた姦、両男の間に女を揷んだ嬲(もっともこれは女のほうより左右にある男のほうが罪あるに相違ない)、奴(やっこ)、妄(みだる)、奸(みだす)、妨(さまたげる)、妖(わざわい)、妬(そねむ)、婪(むさぼる)、嫉(ねたむ)のごときは悪い意味である。その他普通の用語にしても女といえばなんとなく卑めるがごとき印象を受ける。わが輩は常に女といえばただちに母ということを頭脳に思い出すから、いちがいに女という文字を嘲笑的に用うる人多きを見て、不愉快に感ずる。しかし女を卑下する思想は必ずしも日本のみでなく、またシナのみに限らぬ。西洋においても多少この傾向の存在を否定することはできぬ。
書き下し
この人間のうちには男もあれば女もある。しかして「女」なる言葉はその用うる場合により、「人」の場合と同じく、善悪両様の意味を別々に含ませている。むろん男のことを「女らしい」というときは、十に八、九まで誹謗する意旨であるが、しかし女自身に使用するときでも、おもしろからぬ意味を諷することはしばしば見るところである。 たとえば、 「女子と小人は養い難し」 という場合、単に女子という文字だけにてはさらに善悪の意を含んでおらぬが、小人という語と結びあわせると、女子を卑下する心持が現れている。ちょっと普通行わるる諺を見ても、 「どうせ女の事だもの」 「家の乱は女から」 「七人の子は生すとも女に心を許すな」 「大蛇を見るとも女人を見るべからず」 などと女に関する悪口がたくさんある。畢竟いかに男子が自己の愚より婦人に迷ったかを自白するに過ぎぬ。ことに漢字では女の字を偏または旁に含めるものは、むろん善意を含めることなきにあらざるも、多くの場合むしろ悪意を含ましている。 たとえば女を三字集めた姦、両男の間に女を揷んだ嬲(もっともこれは女のほうより左右にある男のほうが罪あるに相違ない)、奴(やっこ)、妄(みだる)、奸(みだす)、妨(さまたげる)、妖(わざわい)、妬(そねむ)、婪(むさぼる)、嫉(ねたむ)のごときは悪い意味である。その他普通の用語にしても女といえばなんとなく卑めるがごとき印象を受ける。わが輩は常に女といえばただちに母ということを頭脳に思い出すから、いちがいに女という文字を嘲笑的に用うる人多きを見て、不愉快に感ずる。しかし女を卑下する思想は必ずしも日本のみでなく、またシナのみに限らぬ。西洋においても多少この傾向の存在を否定することはできぬ。
現代語訳
この人間のうちには男もいれば女もいます。そして「女」という言葉は、使う場面によって、「人」の場合と同じように、善悪どちらの意味も別々に含んでいます。たしかに、男のことを「女らしい」と言うときは、十のうち八、九までそしる意図ですが、女自身に使う場合でも、感じのよくない含みをもたせることはよく見かけます。 たとえば、 「女子と小人は扱いにくい」 と言う場合、「女子」の文字だけでは善悪の意味を含みませんが、「小人」という語と結びつけると、女子を見下す気持ちが現れます。ふつうに言われる諺を見ても、 「どうせ女のことだもの」 「家の乱れは女から」 「七人の子を産んでも女に心を許すな」 「大蛇を見ても女を見るな」 など、女についての悪口がたくさんあります。これはつまるところ、男がいかに自分の愚かさから女に迷ったかを告白しているにすぎません。ことに漢字では、女の字を偏や旁に含む字は、善い意味のものもありますが、多くの場合むしろ悪い意味を含んでいます。 たとえば女を三つ集めた「姦」、二人の男のあいだに女を挟んだ「嬲」(もっともこれは、女より左右の男のほうが罪があるに違いありません)、「奴」、「妄」(みだる)、「奸」(みだす)、「妨」(さまたげる)、「妖」(わざわい)、「妬」(そねむ)、「婪」(むさぼる)、「嫉」(ねたむ)などは悪い意味です。そのほか普通の言葉でも、女と言えばなんとなく見下げた印象を受けます。私は常に、女と聞けばすぐ母を思い出すので、女という文字を嘲笑的に使う人が多いのを見て不愉快に感じます。しかし女を見下す思想は、必ずしも日本だけのものでも、中国だけのものでもありません。西洋にも、多少この傾向があることは否定できません。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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『春秋左氏伝』昭公元年 言を以て物を知る三月、甲辰、盟ふ。楚の公子圍服を設け衛を離ぬ。叔孫穆子曰く、「楚の公子美なり、君なるかな」と。鄭の子皮曰く、「二執戈の者前めり」と。蔡の子家曰く、「蒲宮に前有り、亦た可ならずや」と。楚の伯州犁曰く、「此の行や、辭して之を寡君に假れり」と。鄭の行人揮曰く、「假りて反さざらん」と。伯州犁曰く、「子姑く子皙の背誕せんと欲するを憂へよ」と。子羽曰く、「當璧猶ほ在り。假りて反さずとも、子其れ憂ひ無からんや」と。齊の國子曰く、「吾二子に代りて愍ふ」と。陳の公子招曰く、「憂へずんば何ぞ成らん。二子樂しめり」と。衛の齊子曰く、「苟くも或いは之を知らば、憂ふと雖も何ぞ害あらん」と。宋の合左師曰く、「大國令し、小國共す。吾共するを知るのみ」と。晉の樂王鮒曰く、「小旻の卒章善し。吾之に從はん」と。會より退く。子羽子皮に謂ひて曰く、「叔孫は絞にして婉、宋の左師は簡にして禮、樂王鮒は字しみて敬す。子と子家とは之を持す。皆保世の主なり。齊・衛・陳の大夫は、其れ免れざらんか。國子は人に代りて憂ひ、子招は憂ひを樂しみ、齊子は憂ふと雖も害せずとす。夫れ及ばずして憂ふると、憂ふべくして樂しむと、憂へて害せずとするとは、皆憂ひを取るの道なり。憂ひ必ず之に及ばん。大誓に曰く、『民の欲する所は、天必ず之に從ふ』と。三大夫憂ひを兆す、能く至ること無からんや。言以て物を知るとは、其れ是の謂なり」と。
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