自警録 / 第一章 男一匹・女なる言葉に含まれた道徳的意味(2)
かのシェークスピアの句に Woman, Frailty is thy name.(女よ心弱きとは爾の名なり)といい、またテニソンの Woman is a lesser man.(女は小さき男なり)といえるなど、よほど女を見下げた言葉である。もしそれかかる例証を文学中より拾い集めんとすればほとんど無数である。されば女という言葉だけで、いわゆる外面如菩薩、内心如夜叉という思想を含ませることは、世界を通じて広く行われることである。 しかし同時にまたこれと反対の意味を含ませて用うることもある。たとえば、 「某はさすがに女だけありて」 といえば、もちろん弱いという意味にも用いらるるが、またしばしば柔和で従順で廉潔なるの意を含ませて使わるることもある。漢字を見ても好(このむ)、妥(しずか)などは善い意味である。西洋の文学にも女といえばただちに天使と同一視する例も少なしとせぬ。かくのごとく女という字だけを用いる時は、単に男と性を異にする人なりという簡単な意味にとどまらないで、善とか悪とかいう道徳的評価で判断さるるものである。しかしてこの評価はその使用の場合によりあるいは高きことあれば、あるいは安きことありて、相場が一定しない。
書き下し
かのシェークスピアの句に Woman, Frailty is thy name.(女よ心弱きとは爾の名なり)といい、またテニソンの Woman is a lesser man.(女は小さき男なり)といえるなど、よほど女を見下げた言葉である。もしそれかかる例証を文学中より拾い集めんとすればほとんど無数である。されば女という言葉だけで、いわゆる外面如菩薩、内心如夜叉という思想を含ませることは、世界を通じて広く行われることである。 しかし同時にまたこれと反対の意味を含ませて用うることもある。たとえば、 「某はさすがに女だけありて」 といえば、もちろん弱いという意味にも用いらるるが、またしばしば柔和で従順で廉潔なるの意を含ませて使わるることもある。漢字を見ても好(このむ)、妥(しずか)などは善い意味である。西洋の文学にも女といえばただちに天使と同一視する例も少なしとせぬ。かくのごとく女という字だけを用いる時は、単に男と性を異にする人なりという簡単な意味にとどまらないで、善とか悪とかいう道徳的評価で判断さるるものである。しかしてこの評価はその使用の場合によりあるいは高きことあれば、あるいは安きことありて、相場が一定しない。
現代語訳
かのシェークスピアの句に「Woman, Frailty is thy name.」(女よ、弱さとはおまえの名だ)とあり、またテニソンの「Woman is a lesser man.」(女は小さな男である)というのも、かなり女を見下げた言葉です。もしこうした例を文学の中から拾い集めようとすれば、ほとんど数えきれません。そのため、女という言葉だけで、いわゆる「外面は菩薩のよう、内心は夜叉のよう」という思想を含ませることは、世界じゅうで広く行われています。 しかし同時に、これと反対の意味を含ませて使うこともあります。たとえば、 「あの人はさすがに女だけあって」 と言えば、もちろん弱いという意味にも使われますが、しばしば、柔和で従順で清廉であるという意味を含ませて使われることもあります。漢字を見ても、「好」(このむ)、「妥」(しずか)などは善い意味です。西洋の文学にも、女と言えばそのまま天使と同一視する例が少なくありません。このように、女という字だけを使うとき、それは単に男と性が異なる人という簡単な意味にとどまらず、善とか悪とかいう道徳的評価で判断されます。そしてこの評価は使う場合により、高くなったり安くなったりして、相場が一定しません。
解説

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自警録・第一章 男一匹・女なる言葉に含まれた道徳的意味(1)この人間のうちには男もあれば女もある。しかして「女」なる言葉はその用うる場合により、「人」の場合と同じく、善悪両様の意味を別々に含ませている。むろん男のことを「女らしい」というときは、十に八、九まで誹謗する意旨であるが、しかし女自身に使用するときでも、おもしろからぬ意味を諷することはしばしば見るところである。 たとえば、 「女子と小人は養い難し」 という場合、単に女子という文字だけにてはさらに善悪の意を含んでおらぬが、小人という語と結びあわせると、女子を卑下する心持が現れている。ちょっと普通行わるる諺を見ても、 「どうせ女の事だもの」 「家の乱は女から」 「七人の子は生すとも女に心を許すな」 「大蛇を見るとも女人を見るべからず」 などと女に関する悪口がたくさんある。畢竟いかに男子が自己の愚より婦人に迷ったかを自白するに過ぎぬ。ことに漢字では女の字を偏または旁に含めるものは、むろん善意を含めることなきにあらざるも、多くの場合むしろ悪意を含ましている。 たとえば女を三字集めた姦、両男の間に女を揷んだ嬲(もっともこれは女のほうより左右にある男のほうが罪あるに相違ない)、奴(やっこ)、妄(みだる)、奸(みだす)、妨(さまたげる)、妖(わざわい)、妬(そねむ)、婪(むさぼる)、嫉(ねたむ)のごときは悪い意味である。その他普通の用語にしても女といえばなんとなく卑めるがごとき印象を受ける。わが輩は常に女といえばただちに母ということを頭脳に思い出すから、いちがいに女という文字を嘲笑的に用うる人多きを見て、不愉快に感ずる。しかし女を卑下する思想は必ずしも日本のみでなく、またシナのみに限らぬ。西洋においても多少この傾向の存在を否定することはできぬ。
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自警録・第一章 男一匹・男一匹とは何を意味するかしからば男という言葉もまた人もしくは女というように善意にも悪意にも用いらるるかというに、これは奇態に悪意に用うることがほとんどない。単に男というときは、ただちに男らしいとかあるいは剛毅とか、あるいは大胆不敵、あるいは果断勇猛、あるいは任侠というような一種の印象を惹起す。 「天川屋儀兵衛は男でござる」 と一喝すれば捕手の者も閉息する。 男一匹なる句は一種爽快なる感想を人に与える。わが輩はその出所を知らぬが、おそらくは徳川時代の産物であろう。普通動物に用いる一匹なる言葉をそのままに、万物の霊長たるしかも女に優れたる男子に応用するは、一見男子を侮辱せるかの疑惑を促すが、おそらく動物としても優勝なるものの資格を嘆美するために用いた言葉ではあるまいか。すなわち前に述べた勇猛とか任侠とかという勇ましいところに重きをおいてこの句を用いたのではあるまいか。いわば動物として最も微妙なる知能を有する者、または才能によりて力の足らぬところを、武器をもって補い、豺狼虎豹も遠く及ばぬ力を逞しゅうするさまをいいあらわしたものであろう。 右のごとく考え来たれば一匹なる言葉には、やはり幾分か侮辱の意が含まれているごとく思われる。けだし聖人君子高僧等より見れば、普通にわれわれの賞賛する武勇は猛獣の勇気に類したもので、孟子のいうところの匹夫の勇に過ぎぬ。わが武士道においてもかくのごとき勇気をもって猪勇と称し、深く尊敬しなかったものである。しかしこれは高き見地より見てのことであって、社会がいまだ法治の階段に進まない時代には、武勇は社会の安全に対する保障で、武勇なければ生命も財産も危険に瀕するばかりである。今でも一朝事ある際には、たちまち一国が猛烈なる所為に出る。沙翁の言に、 「ラッパの音のわが耳に響く時は吾人のまさに騎虎の行動を倣うの時なり」 と。暴虎馮河の徒には孔子は与せずといったが、世俗はいまだ彼らに敬服する。昔時、ローマ時代には徳という字と勇気という字とは二つ別々に存在しなかった。勇すなわち徳、徳すなわち勇と考えられていた。かかる時代にはよしや動物性が混じ、匹夫の勇以上に昇らずとも、それが尊かった。しかして男子として褒むべきはこの種の勇を有したからで、国がやや進歩し、法律をもって善悪曲直を判別する時代にいたっても、依然としてなお匹夫の勇が尊ばれ、男を褒むるに一匹の言葉をもってしたものであろう。
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自警録・第一章 男一匹・弱者の保護は男一匹の要素従来、男は女に比し優等なりしために、男は女を保護するをもってその義務となし、またこれを愉快とした。がこの点についても今後両性が相類似するときは同等となり、一方が一方を保護する必要がなくなりそうであるが、おそらくはそれは空想にとどまり、動物の例により推測するに、男性はあくまでも女性を保護するものらしい。すなわちある意味において女性はあくまでも弱き地位に立つもので、男は松、女は藤である。 今後、女性の身体の構造にいかなる変化が来たるとするも、男子に乳房が加わる時の来ないあいだは、母たるの役目はいつまでも女子に属する。この一時に鑑みても男子は女子を保護するの義務が天然に備わっていると思われる。ゆえに男一匹に欠くべからざる要素は女性に対して保護者となるにある。女性の弱きに乗じて彼らを弄び、あるいは彼らを苦しめるがごときは、これ男性の権能を濫用するのはなはだしきもの。力ある者が力なきものを養いかつ護るこそ、生物界における永遠不易の法則である。 むかしの任侠と称する者を見ても、彼らは外見上放蕩三昧に身を持ち崩すようでありながら、なお女子に対する関係は思いのほかに潔白で、足を遊里に踏み込んでも、女子を弄ぶがごときことは少なかったようである。この程度に達せざれば二十世紀における男一匹として世に誇ることはできぬ。
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自警録・第一章 男一匹・男一匹になるには推理の力が要るしからば男一匹たるの資格は、勇気の有無のみをもって定むるかというにそうは行かぬ。勇気なるものは目的に達する方法であって目的でも動機でもない。なんのために勇を揮うかといえば、義のためにするのである。義を見てなせばこそ勇と称すれ、不義と知りながら行えば、いかに奮闘してもそれは怯たるを免れぬ。ここにおいて男性として欠くべからざる要素は事の本末物の軽重を分別する力である。テニソンが「女は小さき男なり」といったのは、むろん形の大小を意味したのでなく、知能の多少を指したのである。 わが輩は脳髄において女性が必ずしも男性に劣るとはいわぬ。女性にして学者や芸術家や宗教家を出しているに見れば、両性のあいだにおいて脳髄の作用が種類を異にするとは思わぬ。今までは西洋においても女性は男性ほどに教育の恩典に与るの便がなかったゆえ、その頭脳もまた思う存分に啓発されなかった。しかし女子教育の便も進みたれば、今後女性の智力の発展は男子のそれに比べてますます大なるものであろう。もっとも普通に女子は男子に劣るという言葉のうちには、腕力の差違を含めることはいうまでもないが、思慮において男子の女子に優越なることを述べたのである。 「女賢うして牛売り損なう」「女の鼻の先思案」 などいうは、こんにちの女子に対してははなはだ侮辱の言に聞こゆるも、女学校の設置なかりし時代においてはさもありしなるべしと思われる。否、女学校に通う学生のあいだにおいてさえも、なお往々にしてこの謗りを免れないものもある。わが輩のいう思慮とはいわゆる「ロジカル・マインド」で、推理の力の謂である。かくすればかくなると直接に起こる因果の関係は何ぴとでも測りやすきことであるが、その先は? なおその先は?と先の先までも推論を下して遠き慮を凝らす力は、今日では(将来はいざ知らず)なお男子の特長(もちろん男子にも無思慮の者多きはいうまでもなけれど、女子に比すれば少なかるべく)とも称すべきものであって、男一匹と誇るものはものごとの利害、曲直について篤と思慮する要素を備えねばならぬ。
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自警録・第一章 男一匹・神と獣類の間に立つ人外国語では人という名詞をただちに男に代用するが、わが国において人というのは西洋のいわゆるペルソン(人格)を指し、ただちに性の区別をいいあらわさない。しかしてこの人なる語はあるいは高尚な意味に用いることもあれば、またすこぶる野卑なる意味を含ませることもある。たとえば、 「人と生まれてかかる事をするのは恥である」 という場合に用いられた人は、万物の霊長であり、したがって廉恥心も自然に備わっているものなれば、よろしく自ら重んずべきものなりとの意味をいいあらわし、動物に対して人の尊重すべきを示したものである。しかるにこれに反し、 「どうせ人間だもの、このくらいのことをするのは当然だ」 という口調を放つときは、神ならぬわれわれは肉も血もあり、多くの弱点を備うるものなれば、時にこれしきの罪業をするのは免れぬと、半獣性の欠点に富めることをいいあらわすに用いられる。かくのごとく人間といえば上は神、下は獣類のあいだに介在するものであるから、両者の性質を兼備し、自分の勝手で都合よきほうに較べ、ある時はみずから尊者の敬称を甘んじて受け、またある時はみずから野卑と称するほど謙遜る。信玄の歌に、 人多き人の中にぞ人ぞなき、人となれ人、人となせ人 とあるは、ある人の歌に、 人はたゞ人とならねば人ならず、人となれ人、人となせ人 とあると同じく「人」なる観念を二つにしていることが明らかである。すなわち「人」なる字が善悪の二様に用いられている。
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自警録・第十九章 言葉の心・言葉はこれを用いる人の心を表す(1)用語においてはなおさらである。これは何人でも経験あることであろう。同一の人を評するに敵意をもってすると好意をもってするとはその結果において実に雲泥の差がある。優れた人を評するにつけても、 「あの男はエライ」という者あり、 「エラそうだ」というもあり、また、 「エラぶる」というもある。 「まるい鶏卵も切りようで四角」。 「物も言いようで角が立つ」。 俗に「糞も味噌も一緒にする」というが、味噌を見て糞のようだというのと、糞を見て味噌のようだというのとは、その人の態度に大差あるを証明する。ゆえに同じことを言うにまったく別な言葉を用いてよいこともある。 たとえばここに笑みを含んで話するものがあるとすれば、甲はこれを、 「巧言令色の人、阿諛謟佞の人」 と評するし、乙は、 「よいぐあいに世渡りする上手者、愛嬌を振りまく八方美人」 という。また丙は、 「真に人に接して城壁を設けず一視同仁的の愛情の深い人だ」という。 いま甲と丙との批評を聞くと、同じ人を評しているものとは思われぬ。乙の批評を聞くにおよび、親戚関係でもある人かという疑問が起こる。同一の人にしても甲乙丙の見ようによりてはかくのごとき差異を生ずる。またここに人あり他の質問に応じて充分に説明するときは、甲は、彼はものしり顔して少しばかりの学問を衒うと評し、乙は、彼はちょっとひと通りはものをしっているようだが、だいぶ得意になって話すると言い、丙は、彼は我々の質問に対し懇切によく説明してくれたと謝する。同じ人の同じ説明でさえも、聞く人によりてかくのごとき異なった感情を受くる。