自警録 / 序(2)
なるほど、なにごとにしても、理を究めんとすれば心理学の原理に入らざるを得ないから、容易ならざる専門的研究となるが、吾人の平常踏むべき道は藪の中にあるでなし、絶壁断巌を沿うでもない。数千年来、数億の人々が踏み固めてくれた、坦々たる平かな道である。吾人が母の胎内においてすでに幾分か聞いて来た道である。孟子の、「慮らざる所にして知るものは人の良知なり」と言った通り、慮らずして、ほとんど無意識に会得してある教訓に従うを道徳と称するものでなかろうか。 わが輩は決して道徳問題は、みなみな無造作に解するものと言うのではない。一生の間には一回二回もしくは数回腸を断ち、胸を焦すような争が心の中に起こることもある。しかしそんな難題は生涯に何回と一本か二本の指で数えつくせるくらいなものである。これに反し、われわれの最も意を注ぐべき心掛は平常毎日の言行――言行と言わんよりは心の持ち方、精神の態度である。平常の鍛錬が成ればたまたま大々的の煩悶の襲い来る時にあたっても解決が案外容易に出来る。ここにおいてわが輩は日々の心得、尋常平生の自戒をつづりて、自己の記憶を新たにするとともに同志の人々の考えに供したい。
書き下し
なるほど、なにごとにしても、理を究めんとすれば心理学の原理に入らざるを得ないから、容易ならざる専門的研究となるが、吾人の平常踏むべき道は藪の中にあるでなし、絶壁断巌を沿うでもない。数千年来、数億の人々が踏み固めてくれた、坦々たる平かな道である。吾人が母の胎内においてすでに幾分か聞いて来た道である。孟子の、「慮らざる所にして知るものは人の良知なり」と言った通り、慮らずして、ほとんど無意識に会得してある教訓に従うを道徳と称するものでなかろうか。 わが輩は決して道徳問題は、みなみな無造作に解するものと言うのではない。一生の間には一回二回もしくは数回腸を断ち、胸を焦すような争が心の中に起こることもある。しかしそんな難題は生涯に何回と一本か二本の指で数えつくせるくらいなものである。これに反し、われわれの最も意を注ぐべき心掛は平常毎日の言行――言行と言わんよりは心の持ち方、精神の態度である。平常の鍛錬が成ればたまたま大々的の煩悶の襲い来る時にあたっても解決が案外容易に出来る。ここにおいてわが輩は日々の心得、尋常平生の自戒をつづりて、自己の記憶を新たにするとともに同志の人々の考えに供したい。
現代語訳
なるほど、どんなことでも理屈を突きつめようとすれば、心理学の原理に入らざるをえませんから、たやすくはない専門的な研究になります。しかし私たちが日常歩むべき道は、藪の中にあるわけでもなく、断崖絶壁に沿っているわけでもありません。数千年来、何億という人々が踏み固めてくれた、平らでなだらかな道です。私たちが母の胎内にいるときから、すでにいくらか聞いてきた道でもあります。孟子が「あれこれ考えなくても知っているのが、人の良知である」と言ったとおり、考えずに、ほとんど無意識のうちに身についている教えに従うことを、道徳と呼ぶのではないでしょうか。 私は、道徳の問題がすべて簡単に解けると言うのではありません。一生のうちには、一度、二度、あるいは数度、はらわたがちぎれ胸が焦げるような争いが心の中に起こることもあります。けれどもそんな難題は、生涯のうちで一本か二本の指で数えられるほどしかありません。これに対して、私たちがもっとも気を配るべき心がけは、毎日の平常の言行、いや言行というより心の持ち方、精神の態度です。平生の鍛錬ができていれば、たまに大きな煩悶が襲ってきたときも、解決は意外にたやすくできます。そこで私は、日々の心得、ありふれた平生の自戒を書きつづり、自分の記憶を新たにするとともに、志を同じくする人々の考えの材料にしたいのです。
解説

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自警録・序(1)とかく道徳とか仁義とかいえば、高尚遠大にして、通常人の及ばざるところ、たまたま及ぶことあれば、生涯に一度か二度あって、専門的に修むる者にあらざれば、単に茶話の料か、講義の題として聞くもののごとく思い流すの懼がある。もちろん道徳の思想は高尚、その道理は遠大であろう。しかしその効用と目的は日々の言行に現すほど、吾人の意識の中に浸み込ませるところにあると思う。古の賢人も道はここにありと教えた。なお賢人の曰うに、「言近くして旨遠きものは善言なり。守ること約にして施すこと博きものは善道なり。君子の言は帯より下らずして道存す」と。 これを思えば道すなわち道徳はその性高くしてその用低く、その来たるところ遠くして、その及ぼすところ広く、田夫野人も守り得るものであるらしい。 わが邦においては道徳に関する文字は漢語より成るもの多きがゆえに、学問なければ、道も修め得ぬ心地す。仁義礼智などとは斯道の人にあらざれば解し能わぬ倫理として、素人のあえて関せざる道理のごとくみなす風がある。これもそのはずであって、むかしは堅苦しき文字を借りて、聖人にも凡人にも共通なる考えを言い現す癖があった。これはただに儒学のみでなく、仏教においても同然で、今日もなお解き難き句あれば「珍聞漢」とか、あるいは「お経の様」なりという。また、かくのごときは独り本邦ばかりでない、西洋においても一時は解りきったことさえも、わざわざ自国の通用語を排してラテン語をもって、論説した時代もあった。薬も長きむずかしき名を付ければ効能多く聞こゆるの例によりて、ややもすると、今もこの弊に陥りやすい。
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自警録・第二十章 忠告の取捨・聖哲の教訓はなにゆえ凡人に入り難きかいったい聖人君子の教えと称するものは、長いかつ広い経験に基づいたことは多いとはいえ、抽象的のものが多くて具体的でない。いわば汎論的で、各論的でない。万民に演べた言で個人に述べた言でないからして、とかくわれわれ凡人の頭には入っても腹の底に沁みることが薄い。 大ざっぱの教訓も、すなわち忠義でも、孝行でも、信義でも、いずれも抽象的で、いかなる国民にも、いかなる境遇の者にも応用できるだけに、これは俺のことだと私の意味に取ることは薄くなる。それゆえに先に述べたように、こういう文字は人を責むる道具に用いるほうがむしろ多いかと思う。彼は不忠者である、彼は不孝者であるという言葉はしばしば聞くが、俺は不忠である俺は不孝であると感ずることは少ない。またたまたま己れの非を自覚しても、すぐに俺はまだ某々ほどに堕落せぬとか、あるいは俺の場合は特別であると自ら義(justify)せんとしたがる。 実際僕が今こうしてこのことを書きながらも、僕自身が人を責めておりはせぬか、この文を草するよりは、むしろ退いて己れ、果たして忠なるか、己れ果たして孝なるかを考えるほうが筆取るよりも急務ではないかとまったく思わぬでもない。これを思うと同時にまた若い時につまらぬことながら僕がここに言わんと欲することを言ってくれる人があったなら、いくらか誤りも少なかったろうにと思いかえしてまた筆を取る。
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『論語と算盤』算盤と権利・競争の善意と悪意全体道徳は日常にあるべきことで、ちょっと時を約束して間違わぬようにするのも道徳である。人に対して譲るべきものは相当に譲るも道徳である。またある場合には、人よりは先にして人に安心を与えてやるというのも道徳である。事に臨んでは義侠心も持たなければならぬ。これも一種の道徳である。ちょっと品物を売るについても、道徳はその間に含んでいる。ゆえに道徳というものは、朝に晩に始終ついているものである。しかるに道徳を大層むずかしいものにして、隅の方に道徳を片付けておいて、さて今日からは道徳を行うのだ、この時間が道徳の時間だというような億劫なものではない。もし商工業などについての競争上の道徳というものであったら、前来繰り返せし通り、善意競争と悪意競争、妨害的に人の利益を奪うという競争であれば、これを悪意の競争と言うのである。しからずして品物を精選した上にも精選して、他の利益範囲に食い込むようなことはしない、これは善意の競争である。つまりこれらの分界は何人でも自己の良心に徴して判明し得ることと思う。
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自警録・第八章 世に蔓延る者は憎まる・所信の貫徹に潜める大苦心(1)元来、義務と義務との衝突は根底においてあり得べきものでない。義務そのものは絶対的であるとしても、個人がこれに対すれば軽重、本末、主従、大小、遠近等によりて関係的相違あり、決して絶対的に同等なものでない。したがって思想的根底において衝突せぬものであるが、実行にあたっては衝突する場合がたくさんある。 孝ならんと欲すれば忠ならず、忠ならんと欲すれば孝ならずと歎くものは、独り平重盛に限らない。些細なることにおいても、少しく考うると必ず衝突の問題の起こらぬことはない。朝自分の家を出て事務所なり学校なりに通わんとするに、右のほうが道がよいか左がよいか、必ず問題として考え得る。右は近いが左のほうが歩きやすいとか、右は平坦だが左道は清潔だとか何とか、たいがいのことには得失問題を起こす理由がある。そしてその判断には少なからず苦しむものである。 むかしの英傑の伝を見るに、果断だとか、「裁決流るるがごとし」とかぞうさもなく出来るように書いてある。彼らが凡人よりも早く事物の要点を見る明晰の頭脳を有することは疑いなきも、また凡人の窺知し得ざる苦労を経るのである。光圀卿の、 見れば只何の苦もなき水鳥の足にひまなき我思ひかな である。 シーザーがその留守中にローマに乱の起これるを聞き、出征先より大軍を率いて帰国し、自国に入ろうか入るまいかとルビコン河畔に立ったときは、凡人の考え得られぬ苦心があったであろう。外部より見れば、さほどに苦心もなく一蹴してルビコン河を越えたらしく見られるも、今もなお歴史上の分岐点として謡われているほど彼の苦心の跡が世界の人心に印してある。
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伝習録・答周道通書来書に云う、「事上に磨錬す。一日の内、事有ると事無きとを管せず、只だ一意に本原を培養す。若し事の来たりて感ずるに遇い、或いは自己に感有らば、心上に既に覚有り。安くんぞ事無しと謂うべけんや。但だ事に因りて心を凝らすこと一会(ひとしき)り、大段、事理の当に此くの如くなるべきを覚え得ば、只だ事無きが如く之に処し、吾が心を尽くすのみ。然れども乃ち処し得て善きと未だ善からざると有るは、何ぞや。又た或いは事の来たること多きを得ば、須らく次第に与に処すべし。毎に才力の足らざるに因り、輒ち困しむ所と為り、極力扶け起こすと雖も精神は已に衰弱するを覚ゆ。此に遇わば未だ十分に退省するを要するを免れず。寧ろ事を了せずとも、培養を加えざるべからず。如何」と。説く所の工夫は、道通の分上に就きても也(また)只だ是れ此くの如く用う。然れども未だ出入有るを免れざるに在り。凡そ人の学を為すは、終身、只だ這の一事を為す。少より老に至り、朝より暮に至るまで、事有ると事無きとを論ぜず、只だ是れ這の一件を做し得たり。所謂る「必ず事とすること有り」なる者なり。若し「寧ろ事を了せずとも、培養を加えざるべからず」と説かば、却って是れ尚お両事と為すなり。「必ず事とすること有りて忘るる勿かれ、助くる勿かれ」。事物の来たるに、但だ吾が心の良知を尽くして以て之に応ず。所謂る「忠恕は道を違(さ)ること遠からず」なり。凡そ処し得て善き有り、未だ善からざる有ると、及び困頓失次の患い有る者は、皆な是れ毀誉得喪に牽かれて、実に其の良知を致す能わざるのみ。若し能く実に其の良知を致さば、然る後に平日の所謂る善なる者も未だ必ずしも是れ善ならず、所謂る未だ善からざる者も却って恐らくは正に是れ毀誉得喪に牽かれて、自ら其の真知を賊(そこな)う者なるを見得ん。
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伝習録・答欧陽崇一来書に又た云う、「師云う、『学を為すは終身、只だ是れ一事なり。事有ると事無きとを論ぜず、只だ是れ這の一件なり。若し寧ろ事を了せずとも、培養を加えざるべからずと説かば、却って是れ分ちて両事と為すなり』と。竊かに意う、精力の衰弱にして、以て事を終うるに足らざるを覚ゆる者は、良知なり。寧ろ事を了せずとも、且く休養を加うるは、致知なり。如何ぞ却って両事と為さんや。若し事変の来たり、事勢の了せざるを容れざる有りて、精力は衰うと雖も、稍(やや)鼓舞せば亦た能く支持せば、則ち志を持して以て気を帥(ひき)いて可なり。然れども言動、終に気力無く、事を畢(お)うれば則ち困憊已甚。其の気を暴(そこな)うに幾(ちか)からずや。此れ其の軽重緩急、良知は固より未だ嘗て知らずんばあらず。然れども或いは事勢に迫られば、安くんぞ能く精力を顧みん。或いは精力に困しめば、安くんぞ能く事勢を顧みん。如何にせば則ち可ならん」と。「寧ろ事を了せずとも、培養を加えざるべからず」の意は、且く初学と此くの如く説かば、亦た益無しと為さず。但だ両事と作して看了らば、便ち病痛の在る有り。孟子の「必ず事とすること有り」と言うは、則ち君子の学は終身、只だ是れ「義を集む」の一事なり。義とは、宜なり。心、其の宜を得るを之れ義と謂う。能く良知を致さば則ち心、其の宜を得たり。故に「義を集む」も亦た只だ是れ良知を致すなり。君子の万変に酬酢するや、行うべければ則ち行い、止むべければ則ち止み、生くべければ則ち生き、死すべければ則ち死す。斟酌調停、其の良知を致し、以て自ら慊(あきた)るを求むるに非ざる無きのみ。故に「君子は其の位に素して行う」「思うこと其の位を出でず」。凡そ其の力の及ばざる所を謀りて、其の知の能わざる所を強うる者は、皆な致良知と為すを得ず。而して凡そ「其の筋骨を労し、其の体膚を餓えしめ、其の身を空乏にし、行い其の為す所を払乱し、心を動かし性を忍びて以て其の能わざる所を増益す」る者は、皆な其の良知を致す所以なり。若し寧ろ事を了せずとも、培養を加えざるべからずと云う者は、亦た是れ先ず功利の心有り、成敗利鈍を計較して其の間に愛憎取捨するなり。是を以て事を了するを将(も)って自ら一事と作し、而して培養は又た別に一事と作す。此れ便ち是れ内を是とし外を非とするの意有り。便ち是れ自ら私して智を用う。便ち是れ「義を外にす」。便ち「心に得ずんば気に求むる勿かれ」の病有り。便ち是れ良知を致して以て自ら慊るを求むるの功にあらざるなり。云う所の「鼓舞支持し、事を畢うれば則ち困憊已甚」、又た云う「事勢に迫られ、精力に困しむ」は、皆な是れ両事と作し做し了れり。所以に此れ有り。凡そ学問の功、一なれば則ち誠、二なれば則ち偽。凡そ此れ皆な是れ良知を致すの意、誠一真切なるを欠くの故なり。『大学』に言う、「其の意を誠にする者は、悪臭を悪むが如く、好色を好むが如し。此れを之れ自ら慊ると謂う」と。曾て悪臭を悪み、好色を好みて、須らく鼓舞支持すべき者有るを見んや。