茶の本 / 第七章 茶の宗匠・芸術においては現在が永遠である
宗教においては未来がわれらの背後にある。芸術においては現在が永遠である。茶の宗匠の考えによれば芸術を真に鑑賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す人々にのみ可能である。ゆえに彼らは茶室において得た風流の高い軌範によって彼らの日常生活を律しようと努めた。すべての場合に心の平静を保たねばならぬ、そして談話は周囲の調和を決して乱さないように行なわなければならぬ。着物の格好や色彩、身体の均衡や歩行の様子などすべてが芸術的人格の表現でなければならぬ。これらの事がらは軽視することのできないものであった。というのは、人はおのれを美しくして始めて美に近づく権利が生まれるのであるから。かようにして宗匠たちはただの芸術家以上のものすなわち芸術そのものとなろうと努めた。それは審美主義の禅であった。われらに認めたい心さえあれば完全は至るところにある。利休は好んで次の古歌を引用した。
書き下し
宗教においては未来がわれらの背後にある。芸術においては現在が永遠である。茶の宗匠の考えによれば、芸術を真に鑑賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す人々にのみ可能である。ゆえに彼らは、茶室において得た風流の高い軌範によって、彼らの日常生活を律しようと努めた。すべての場合に心の平静を保たねばならぬ、そして談話は周囲の調和を決して乱さないように行なわなければならぬ。着物の格好や色彩、身体の均衡や歩行の様子など、すべてが芸術的人格の表現でなければならぬ。これらの事がらは軽視することのできないものであった。というのは、人はおのれを美しくして始めて美に近づく権利が生まれるのであるから。かようにして宗匠たちは、ただの芸術家以上のもの、すなわち芸術そのものとなろうと努めた。それは審美主義の禅であった。われらに認めたい心さえあれば、完全は至るところにある。利休は好んで次の古歌を引用した。
現代語訳
宗教においては未来が私たちの背後にあります。芸術においては現在が永遠です。茶の宗匠の考えによれば、芸術を真に鑑賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す人だけに可能です。ですから彼らは、茶室で得た風雅の高い基準によって自分の日常生活を律しようと努めました。どんな場合にも心の平静を保たねばならず、話は周囲の調和を決して乱さないように行わなければなりません。着物の形や色、身体の釣り合いや歩き方など、すべてが芸術的な人格の表れでなければならない。これらは軽く見ることのできないものでした。人は自分を美しくして初めて、美に近づく権利が生まれるからです。こうして宗匠たちは、ただの芸術家以上のもの、すなわち芸術そのものになろうと努めました。それは美の禅でした。私たちに認めたい心さえあれば、完全はいたるところにあります。利休は好んで次の古歌を引きました。
解説
この章句が説くこと
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『武士道』第十章 武士の教育・文学は消閑の娯楽として修む英国詩人の云へるが如く、武士は『人を救ふは信条に非らずして、信条を全うするは、ただ人に在り』と信ぜり。哲理と文学との二は、武士の智育の眼目を成せりと雖、此等を修むるに於ても、亦た武士の志す所は客観の真理に非ず。文学は要するに消閑の娯楽として之を修め、哲理は軍旅もしくは政治の問題を解明するが為に之を講ずるか、然らざれば品性を作るの実用に資するものなりき。しかるが故に、武士教育の課程は主として、撃剣、射術、柔術、騎術、槍術、兵法、書道、倫理、文学及び歴史の類なりしことは、又た異しむを須ひず。此中、柔術及び書道を必須とする要旨は、多少之れが説明を加へざれば、或は領し難きものあるべし。能書良筆を尊びたる所以のものは、けだし漢字の形象に成れるが故に、絵画の性質を帯びて美術的価値を有すると、又た筆蹟は人の性格を表示するものなりと認むるに由る。
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論語・公冶長篇孟武伯問う、「子路は仁なりや。」子曰く、「知らざるなり。」又問う。子曰く、「由や、千乗の国、其の賦を治めしむ可きなり。其の仁を知らざるなり。」「求や何如。」子曰く、「求や、千室の邑、百乗の家、之が宰たらしむ可きなり。其の仁を知らざるなり。」「赤や何如。」子曰く、「赤や、束帯して朝に立ち、賓客と言わしむ可きなり。其の仁を知らざるなり。」
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論語・陽貨篇子曰く、年四十にして悪まるれば、其れ終わらんのみ。
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『墨子』法儀然らば則ち奚を以て治法を為して可ならんか。故に曰く、天に法るに若くは莫し、と。天の行いは廣くして私無く、其の施しは厚くして徳とせず、其の明るきは久しくして衰えず。故に聖王は之に法る。既に天を以て法と為さば、動作有為には、必ず天に度り、天の欲する所は則ち之を為し、天の欲せざる所は則ち止む。
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『墨子』法儀然らば則ち奚を以て治法を為して可ならんか。當に皆な其の父母に法らば奚若ん。天下の父母為る者は衆けれども、仁なる者は寡し。若し皆な其の父母に法らば、此の法は不仁なり。法、不仁なれば、以て法と為す可からず。當に皆な其の學に法らば奚若ん。天下の學を為す者は衆けれども、仁なる者は寡し。若し皆な其の學に法らば、此の法は不仁なり。法、不仁なれば、以て法と為す可からず。當に皆な其の君に法らば奚若ん。天下の君為る者は衆けれども、仁なる者は寡し。若し皆な其の君に法らば、此の法は不仁なり。法、不仁なれば、以て法と為す可からず。故に父母・學・君の三者は、以て治法と為す可き莫し。
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『墨子』法儀子墨子曰く、天下の事を從むる者は、以て法儀無かる可からず。法儀無くして其の事能く成る者は、有ること無し。士の將相為る者に至ると雖も皆な法有り、百工の事を從むる者に至ると雖も亦た皆な法有り。百工は方を為すに矩を以てし、圜を為すに規を以てし、直きは繩を以てし、正しきは懸を以てす。巧工も不巧工も無く、皆な此の四者を以て法と為す。巧なる者は能く之に中り、不巧なる者は中つる能わずと雖も、放依して以て事を從めば、猶お已に逾えたり。故に百工の事を從むるや、皆な法度有り。今、大なる者は天下を治め、其の次は大國を治むるに、而も法度無し。此れ百工の辯なるに若かざるなり。