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法句経 / 第二十六 婆羅門の部 四一〇〜四一二 福と罪とに執せず

四一〇 人若し今世又は後世を希はず、希望なく、束縛を離るれば、彼を我は婆羅門と謂ふ。 四一一 人若し愛著なく、(諦理を)知つて疑なく、甘露の源底に達すれば、彼を我は婆羅門と謂ふ。 四一二 人若し此の世に於て福と罪と兩ながら執するを息め、憂なく、貪を離れ、清淨なれば彼を我は婆羅門と謂ふ。

新字:四一〇 人若し今世又は後世を希はず、希望なく、束縛を離るれば、彼を我は婆羅門と謂ふ。 四一一 人若し愛著なく、(諦理を)知つて疑なく、甘露の源底に達すれば、彼を我は婆羅門と謂ふ。 四一二 人若し此の世に於て福と罪と両ながら執するを息め、憂なく、貪を離れ、清浄なれば彼を我は婆羅門と謂ふ。

書き下し

四一〇 人若し今世又は後世を希はず、希望なく、束縛を離るれば、彼を我は婆羅門と謂ふ。 四一一 人若し愛著なく、(諦理を)知つて疑なく、甘露の源底に達すれば、彼を我は婆羅門と謂ふ。 四一二 人若し此の世に於て福と罪と両ながら執するを息め、憂なく、貪を離れ、清浄なれば彼を我は婆羅門と謂ふ。

現代語訳

もし人が、この世をも来世をも願い求めず、望みを持たず、束縛を離れているならば、その人を私は婆羅門と呼ぶ。もし人が愛著なく、(真理を)知って疑いがなく、甘露(涅槃)の底にまで達しているならば、その人を私は婆羅門と呼ぶ。もし人がこの世において、福と罪との両方への執著をやめ、憂いなく、貪りを離れ、清らかであるならば、その人を私は婆羅門と呼ぶ。

解説

四一二偈は、罪だけでなく福に対する執著もやめよと言う。悪を避けるのは当然として、善い行いの功徳を貯めこもうとすることもまた一つの執著だという見方である。第三章「心の部」にも「善悪を捨てたる」覚者の姿が出てくるが、ここでも善悪の彼方が婆羅門の条件とされる。四一〇偈の「今世又は後世を希はず」も同じ方向を向く。来世のよい生まれを願うことは、古代インドでは宗教実践の大きな動機であったが、それすら手放した人が描かれている。四一一偈の甘露は不死の霊薬を意味する語で、ここでは涅槃を指す。その「源底」、いちばん深いところに達したという。成果や評価を求めずに善いことを行えるかどうかは、成果主義の中で働く人にとって、答えの出にくい問いとして残る。

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