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法句経 / 第二十六 婆羅門の部 四〇一〜四〇三 蓮の葉の上の水

四〇一 藕葉の上の水の如く、針端の芥子の如く、欲に染らざる人を我は婆羅門と謂ふ。 四〇二 人あり現世に於てすら己の苦の盡を遍知し、重擔を下し、繋を離るれば、我は彼を婆羅門と謂ふ。 四〇三 甚深の慧を具し、聰明に、道非道に通達し、最上義を得たる人を我は婆羅門と謂ふ。

新字:四〇一 藕葉の上の水の如く、針端の芥子の如く、欲に染らざる人を我は婆羅門と謂ふ。 四〇二 人あり現世に於てすら己の苦の尽を遍知し、重担を下し、繋を離るれば、我は彼を婆羅門と謂ふ。 四〇三 甚深の慧を具し、聰明に、道非道に通達し、最上義を得たる人を我は婆羅門と謂ふ。

書き下し

四〇一 藕葉の上の水の如く、針端の芥子の如く、欲に染らざる人を我は婆羅門と謂ふ。 四〇二 人あり現世に於てすら己の苦の尽を遍知し、重担を下し、繋を離るれば、我は彼を婆羅門と謂ふ。 四〇三 甚深の慧を具し、聡明に、道非道に通達し、最上義を得たる人を我は婆羅門と謂ふ。

現代語訳

蓮の葉の上の水のように、針の先の芥子粒のように、欲に染まらない人を、私は婆羅門と呼ぶ。人があって、この世においてすでに自らの苦の尽きることを知り尽くし、重荷を下ろし、束縛を離れたならば、私は彼を婆羅門と呼ぶ。深い智慧を備え、聡明で、道と道でないものとに通じ、最上の目的(阿羅漢の境地)を得た人を、私は婆羅門と呼ぶ。

解説

四〇一偈の二つの比喩が、手ざわりまで伝わってくる。藕葉は蓮の葉で、水を落としても濡れずに玉となって転がる。針の先に芥子粒を置いても、とどまらずに落ちる。荻原の注は前者を「染まらざる」、後者を「住著せざる」にたとえたものとする。欲の中にあって欲に染まらず、何かに触れてもそこに居つかない。水や芥子を拒んでいるのではなく、ただ付かないのである。四〇二偈の「重担を下し」は、背負っていた荷を下ろすという身体的な安堵を伴う表現で、「現世に於てすら」と、死後ではなく今ここでそれが起こりうると言う。四〇三偈は道と非道を見分ける智慧を挙げる。多くの案件に触れながら、どれにも絡め取られない在り方は、判断を担う立場の人にとって一つの理想像になる。

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