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法句経 / 第二十六 婆羅門の部 三九五〜三九七 生まれによらず

三九五 糞掃衣を被、羸痩し、筋脈露顯し、獨り林中に處して靜慮する人を我は婆羅門と謂ふ。 三九六 姓に由り、母の族に由り、我は婆羅門と謂はず、彼は貴族と稱すべし、彼は實に富者なり、無所有無取なる人を我は婆羅門と謂ふ。 三九七 人あり一切の結を斷ち、決して憂慼せず、著を去り繋を離れたるを我は婆羅門と謂ふ。

新字:三九五 糞掃衣を被、羸痩し、筋脈露顕し、独り林中に処して静慮する人を我は婆羅門と謂ふ。 三九六 姓に由り、母の族に由り、我は婆羅門と謂はず、彼は貴族と称すべし、彼は実に富者なり、無所有無取なる人を我は婆羅門と謂ふ。 三九七 人あり一切の結を断ち、決して憂慼せず、著を去り繋を離れたるを我は婆羅門と謂ふ。

書き下し

三九五 糞掃衣を被、羸痩し、筋脈露顕し、独り林中に処して静慮する人を我は婆羅門と謂ふ。 三九六 姓に由り、母の族に由り、我は婆羅門と謂はず、彼は貴族と称すべし、彼は実に富者なり、無所有無取なる人を我は婆羅門と謂ふ。 三九七 人あり一切の結を断ち、決して憂慼せず、著を去り繋を離れたるを我は婆羅門と謂ふ。

現代語訳

糞掃衣(捨てられたぼろ布で作った衣)をまとい、痩せ衰えて筋や脈があらわになり、ひとり林の中にいて静かに瞑想する人を、私は婆羅門と呼ぶ。生まれによって、また母の家系によって、私は婆羅門と呼ぶのではない。そういう者は「貴族」と称すべきであり、実に富める者ではあろう。何ものも持たず、何ものにも執著しない人を、私は婆羅門と呼ぶ。人があって、一切の結(束縛)を断ち、決して憂い悲しまず、執著を去り、束縛を離れたならば、その人を私は婆羅門と呼ぶ。

解説

三九六偈がこの章の核心を最もはっきり語る。生まれや母方の血筋によって婆羅門と呼ぶのではない。そういう人は貴族と称すればよく、確かに富んではいるだろう。しかし婆羅門とは無所有無取の人だという。古代インドの身分制度の頂点にある名を、血統から切り離して行いと心のあり方に結びつける。釈尊の時代において、これは制度への静かだが根本的な異議申し立てであった。三九五偈の糞掃衣は、ごみ捨て場や墓地に捨てられた布を綴り合わせた衣で、痩せて筋の浮いた姿とともに、外見上はおよそ貴さと無縁の人が描かれる。その人をこそ婆羅門と呼ぶという対比が鮮やかである。肩書きや出身ではなく何を手放したかで人を見るという物差しは、今も組織の中で試されている。

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