法句経 / 第二十六 婆羅門の部 三九二 法を説く人を敬う
三九二 若し正等覺者所説の法を説示するものあらば、人は彼を恭しく禮すべし、婆羅門が火天を(禮するが)如くに。
新字:三九二 若し正等覚者所説の法を説示するものあらば、人は彼を恭しく礼すべし、婆羅門が火天を(礼するが)如くに。
書き下し
三九二 若し正等覚者所説の法を説示するものあらば、人は彼を恭しく礼すべし、婆羅門が火天を(礼するが)如くに。
現代語訳
もし正しく目覚めた者(仏)が説いた法を説き示す人があれば、人はその人を恭しく礼拝すべきである。婆羅門が火の神を礼拝するように。
解説
婆羅門の部の中で、この偈は「我は婆羅門と謂ふ」の句を持たず、婆羅門が比喩の側に回っている。火天はヴェーダの神アグニで、婆羅門は日々祭火を焚き、朝夕これに供物を捧げて礼拝した。その熱心さと恭しさを借りて、法を説いてくれる人への敬意を語る。注目したいのは、敬う対象が仏その人ではなく「正等覚者所説の法を説示するもの」、つまり教えを取り次ぐ人である点だ。教えは自分で考え出すものではなく、誰かから手渡されて届く。その手渡してくれた人を、祭火を拝むほどに敬えという。当時の宗教儀礼を比喩に用いながら、その中身を師弟の関係に置き換えている。学びを受けた相手への敬意は、学んだ中身そのものを大切にする態度とつながっている。
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