法句経 / 第二十五 比丘の部 三八一・三八二 雲を出た月
三八一 喜悦多く佛教に淨信ある比丘は變化の止息せる寂靜の樂處に到るべし。 三八二 比丘あり年少なりと雖も佛法に於て精勤なれば、彼は此の世を照らす、雲を出たる月の如し。
新字:三八一 喜悦多く仏教に浄信ある比丘は変化の止息せる寂静の楽処に到るべし。 三八二 比丘あり年少なりと雖も仏法に於て精勤なれば、彼は此の世を照らす、雲を出たる月の如し。
書き下し
三八一 喜悦多く仏教に浄信ある比丘は変化の止息せる寂静の楽処に到るべし。 三八二 比丘あり年少なりと雖も仏法に於て精勤なれば、彼は此の世を照らす、雲を出たる月の如し。
現代語訳
喜びが多く、仏の教えに清らかな信を持つ比丘は、移り変わりの止んだ、静かな安楽の境地に到るであろう。比丘があって、年若くとも仏の教えに精進するならば、彼はこの世を照らす。雲を離れて出た月のように。
解説
「比丘の部」の結びの二偈である。三八一偈は三六八偈とほぼ同じ形をしており、慈心の代わりに喜悦が置かれている。修行が苦行の顔だけをしていないことを、この章は繰り返し示す。三八二偈は年少の比丘を月にたとえる。同じ比喩は第十三章「世の部」にも見え、放逸を離れた人が雲を出た月のように世を照らすとされていた。ここでは「年少なりと雖も」が加わる。若さや経験の浅さは、照らす力の有無を決めない。決めるのは精勤であるという。雲に隠れていた月が出るとき、月そのものが新しく生まれたわけではない。もとからあった光が遮りを離れただけである。若手を見るとき、経験の不足ではなく、光を遮っている雲のほうに目を向けるという見方もできる。
関連する章句
-
『法句経』第二十六 婆羅門の部 三八六〜三八八 静慮して照る三八六 静慮し、離貪し、堅住し、已に所作を作し、心の穢なく、最上義を獲得せる人を我は婆羅門と謂ふ。 三八七 日は昼に照り、月は夜を照らし、兵は甲を擐して照り、婆羅門は静慮して照り、仏は威光を以て一切迷妄の闇を照らす。 三八八 諸悪を去るが故に婆羅門なり、寂静行のゆゑに沙門と謂はる、己の垢を除遣せるが故に出家と謂はる。
-
『法句経』第十三 世俗の部 一七二・一七三一七二 人若し先に放逸なるも後に不放逸なれば能く此の世間を照す、雲を出たる月の如く。 一七三 人若し先に悪業を作るも(後に)善を以て此を滅せば能く此の世間を照す、雲を出たる月の如く。
-
『法句経』第二十五 比丘の部 三七三〜三七五 空屋に入る比丘三七三 空屋に入り心寂静なる比丘は、正しく法を観じて人中に無き楽を享く。 三七四 人苟も蘊の生滅を思惟することあらば不死を証得せし人の喜楽を得ん。 三七五 現世に於ける聡慧ある比丘の初とは謂く、感官を護り、満足し、道徳の規律を擁護し、生活正しく、善友を侶とするにあり。
-
『法句経』第十五 安楽の部 二〇五〜二〇八 月の星宿を行くが如く二〇五 遠離の液を飲み、又寂静の液を(飲み)、(又)法喜の液を飲みて罪過を離れ(又)悪を離る。 二〇六 善い哉聖を見ること、(聖と)共に住するは楽なり、凡愚を見ずんば常に楽なるべし。 二〇七 凡愚と倶に道を行けば、長途に憂ふ、凡愚と共に住するは敵と(共に住するが)如く恒に苦なり、智者と共に住するは楽なり、猶ほ親族と会ふが如し。是れに由つて 二〇八 彼の賢く、智ある、多く学べる、忍辱なる、戒を具せる、聖き、是の如き善士聡慧者に随ふべし、月の星宿を行くが如く。
-
『法句経』第二十五 比丘の部 三六三・三六四 口を制する比丘三六三 比丘若し口を制し、説く所賢善にして、寂静に、義と法とを示さば其言甘美なり。 三六四 比丘あり、法に住し、法を好み、法を随思し、法を随念すれば、法を退することなし。
-
『法句経』第十八 塵垢の部 二三八 再び生と老に近づかず二三八 汝己の帰依処を造れ、疾く勤めよ、賢くあれ、垢を去り穢なきものは、再び生と老に近づかざるべし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る