法句経 / 第二十 道の部 二八六〜二八八 眠れる村を漂わす暴流
二八六 秋には我れ此處に住まるべし、冬に亦夏には此處に(住まるべし)、斯く愚者は思惟して死(の到る)を覺らず。 二八七 子孫と家畜に狂醉し執著する人を死は捕へ去る、暴流が眠れる村を(漂はす)如く。 二八八 子も救ふ能はず、父も亦友も親戚も救ひ得じ、死に捕はれたるものを。
新字:二八六 秋には我れ此処に住まるべし、冬に亦夏には此処に(住まるべし)、斯く愚者は思惟して死(の到る)を覚らず。 二八七 子孫と家畜に狂酔し執著する人を死は捕へ去る、暴流が眠れる村を(漂はす)如く。 二八八 子も救ふ能はず、父も亦友も親戚も救ひ得じ、死に捕はれたるものを。
書き下し
二八六 秋には我れ此処に住まるべし、冬に亦夏には此処に(住まるべし)、斯く愚者は思惟して死(の到る)を覚らず。 二八七 子孫と家畜に狂酔し執著する人を死は捕へ去る、暴流が眠れる村を(漂はす)如く。 二八八 子も救ふ能はず、父も亦友も親戚も救ひ得じ、死に捕はれたるものを。
現代語訳
秋にはここに住もう、冬にもまた夏にもここに住もう。愚かな者はこのように考えて、死が訪れることに気づかない。子や孫や家畜に心を奪われ執着している人を、死は捕らえ去っていく。激しい洪水が眠っている村を押し流すように。子も救うことはできない。父もまた友も親族も救うことはできない。死に捕らえられた者を。
解説
「道の部」の後半、死の到来を描く三偈である。二八六偈の愚者は、季節ごとの暮らしの予定を立てている。秋はここで、冬も夏もここで。荻原の注によれば「此処」は現在の世界を指す。予定を立てること自体が愚かなのではなく、その予定の中に死が入っていないことが問題にされている。二八七偈の比喩は、夜に眠る村を洪水がのみ込む情景である。人々は子や孫、家畜のことで頭がいっぱいで、水かさが増していることに気づかない。暴流は一軒ずつではなく村ごと流していく。二八八偈は、そのとき誰も助けられないと言う。親も子も友も親族も、死の前では手が出せない。冷たい言葉だが、だからこそ自分で備えるしかないという次の偈へつながる。計画に「もしも」が入っているか。自分がいなくなっても回る仕組みがあるかを考える材料になる。
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