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法句経 / 第十九 住法の部 二六八〜二七〇 衡を執るが如く

二六八 愚昧無智なれば寂默に住すと雖も牟尼(寂默)ならず、智者は衡を執るが如く、善を取り、 二六九 惡を避くれば、此の牟尼こそ眞の寂默なれ、人若し世に於て(善惡の)兩を量れば夫に由つて牟尼と謂はる。 二七〇 生を害するを以て阿梨耶なるに非ず、一切の生を害せざるに由つて阿梨耶と謂はる。

新字:二六八 愚昧無智なれば寂黙に住すと雖も牟尼(寂黙)ならず、智者は衡を執るが如く、善を取り、 二六九 悪を避くれば、此の牟尼こそ真の寂黙なれ、人若し世に於て(善悪の)両を量れば夫に由つて牟尼と謂はる。 二七〇 生を害するを以て阿梨耶なるに非ず、一切の生を害せざるに由つて阿梨耶と謂はる。

書き下し

二六八 愚昧無智なれば寂黙に住すと雖も牟尼(寂黙)ならず、智者は衡を執るが如く、善を取り、 二六九 悪を避くれば、此の牟尼こそ真の寂黙なれ、人若し世に於て(善悪の)両を量れば夫に由つて牟尼と謂はる。 二七〇 生を害するを以て阿梨耶なるに非ず、一切の生を害せざるに由つて阿梨耶と謂はる。

現代語訳

愚かで智慧がなければ、沈黙を守っていても牟尼(聖者)ではない。智者は秤を手にとるように善を取り、悪を避ける。そうするならば、この牟尼こそが真の沈黙の人である。人がこの世において善と悪の両方を量るならば、それによって牟尼と呼ばれる。生き物を害することによって阿梨耶(聖者)であるのではない。一切の生き物を害さないことによって阿梨耶と呼ばれる。

解説

語の響きを使った偈が三つ続く。荻原の注によれば、牟尼は沈黙あるいは賢人の意で、「量る」の語とも音が通じる。黙っていれば牟尼なのではない、善悪を量る者が牟尼なのだと、音の近さを手がかりに意味を転じてみせる。「衡を執るが如く」の比喩がよい。秤は片方の皿だけを見ていては使えない。両方を見比べ、傾きを確かめて初めて量れる。沈黙の値打ちは口を閉じることにではなく、その間に何を量っているかにある。二七〇偈の阿梨耶は聖者の意だが、荻原は「敵」を意味する語と音が近いための言い回しかと推測している。聖者とは生き物を害する者ではなく、害さない者だという。会議で黙っている人が考え深いとは限らない。自分の沈黙が量っている沈黙か、ただの無言かを問う材料になる。

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