法句経 / 第十九 住法の部 二六五〜二六七 真の比丘
二六五 人若し麤細一切の罪過を止むれば、罪過の止息せるがため沙門と謂はる。 二六六 他に乞ふのみにては比丘ならず、一切の所應行を服膺するのみにては比丘ならず。 二六七 人若し現世に於て罪福を離れて淨行に住し、愼重にして世を行けば眞の比丘と謂はる。
新字:二六五 人若し麤細一切の罪過を止むれば、罪過の止息せるがため沙門と謂はる。 二六六 他に乞ふのみにては比丘ならず、一切の所応行を服膺するのみにては比丘ならず。 二六七 人若し現世に於て罪福を離れて浄行に住し、慎重にして世を行けば真の比丘と謂はる。
書き下し
二六五 人若し麤細一切の罪過を止むれば、罪過の止息せるがため沙門と謂はる。 二六六 他に乞ふのみにては比丘ならず、一切の所応行を服膺するのみにては比丘ならず。 二六七 人若し現世に於て罪福を離れて浄行に住し、慎重にして世を行けば真の比丘と謂はる。
現代語訳
もし人が大小すべての罪過を止めるならば、罪過が止み息んでいるがゆえに沙門と呼ばれる。ただ他人に食を乞うだけでは比丘(出家修行者)ではない。なすべきとされる一切の行いを身に守っているだけでも比丘ではない。もし人がこの世において罪も福も離れて清らかな行いに住し、慎み深く世を歩むならば、真の比丘と呼ばれる。
解説
前の偈に続き、沙門と比丘という名の意味を問い直す三偈である。荻原の注によれば、沙門の原語は勤めや行者の意だが、その音が「止息」の語に通じるため、罪過を止めた者を沙門と呼ぶのだという。語呂合わせのようでいて、名の由来をずらして中身を突きつける手法である。比丘も、もとは「乞う者」の意をもつ語とされ、二六六偈はそれを逆手に取る。乞食するだけでは比丘ではなく、決まりを形だけ守っても比丘ではない。二六七偈の「罪福を離れて」は、悪を避けるだけでなく、善の報いを求める計算からも離れることを指す。福を積もうとする心もまた一つの執着だからである。そのうえで慎重に世を歩む者が真の比丘だという。職名や資格は入口にすぎない。その名に何が込められていたかを思い出すことは、仕事の中身を問い直すことにもつながる。
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