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法句経 / 第十九 住法の部 二六二〜二六四 言説のみにて善人ならず

二六二 唯言説のみに由り、又は顏色の美しきに由り、嫉妬、慳悋、諂曲の人は善人とならず。 二六三 人若し此等を斷ち、根絶し、全く害すれば、已に過失を吐ける聰き善人と謂はる。 二六四 頭を剃ると雖も無戒にして妄語すれば沙門に非ず、欲貪を具ふるもの如何ぞ沙門ならん。

新字:二六二 唯言説のみに由り、又は顔色の美しきに由り、嫉妬、慳悋、諂曲の人は善人とならず。 二六三 人若し此等を断ち、根絶し、全く害すれば、已に過失を吐ける聰き善人と謂はる。 二六四 頭を剃ると雖も無戒にして妄語すれば沙門に非ず、欲貪を具ふるもの如何ぞ沙門ならん。

書き下し

二六二 唯言説のみに由り、又は顔色の美しきに由り、嫉妬、慳悋、諂曲の人は善人とならず。 二六三 人若し此等を断ち、根絶し、全く害すれば、已に過失を吐ける聡き善人と謂はる。 二六四 頭を剃ると雖も無戒にして妄語すれば沙門に非ず、欲貪を具ふるもの如何ぞ沙門ならん。

現代語訳

ただ言葉が巧みであるというだけで、あるいは顔立ちが美しいというだけで、嫉妬深く、物惜しみし、へつらい心の曲がった人が善人となるのではない。もし人がこれらを断ち、根こそぎにし、すっかり滅ぼすならば、すでに過ちを吐き出した聡明な善人と呼ばれる。頭を剃っていても、戒を守らず偽りを語るならば沙門(修行者)ではない。欲と貪りをそなえた者が、どうして沙門であろうか。

解説

「住法の部」は、名とその中身が一致しているかを繰り返し問う。ここでは善人と沙門が取り上げられる。二六二偈は、口のうまさや見た目の良さでは善人にならないと言い、その裏にある嫉妬・慳悋・諂曲を挙げる。慳悋は物惜しみ、諂曲はへつらいと心のねじれである。弁舌も容貌も人の目を引くが、心の内の癖を隠す覆いにもなる。二六三偈の「過失を吐ける」という表現がおもしろい。悪いものを飲み込んだまま外を飾るのではなく、吐き出してしまった者が善人だという。二六四偈は同じ理屈を出家者に当てはめる。剃髪は修行者の外形だが、戒を持たず偽りを語るなら沙門ではない。肩書や身なりは中身を保証しない。採用や評価の場で、話のうまさや印象の良さに引きずられていないかを点検する手がかりになる。

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