法句経 / 第十九 住法の部 二五八〜二六一
二五八 多く説くのみにては智者に非ず、穩かに、憎みなく、畏れなきは智者と謂はる。 二五九 多く説くのみにては持法者ならず、若し少法を聞きても、之を身に履修すれば、實に持法者なり、彼は法を忽にせず。 二六〇 頭髮白ければとて長老ならず、彼の齡熟し空しく老いたりと謂ふべきのみ。 二六一 人若し諦と法と不害と禁戒と柔善とあれば、彼こそ已に垢を吐きたる聰き長老と謂はる。
新字:二五八 多く説くのみにては智者に非ず、穏かに、憎みなく、畏れなきは智者と謂はる。 二五九 多く説くのみにては持法者ならず、若し少法を聞きても、之を身に履修すれば、実に持法者なり、彼は法を忽にせず。 二六〇 頭髪白ければとて長老ならず、彼の齢熟し空しく老いたりと謂ふべきのみ。 二六一 人若し諦と法と不害と禁戒と柔善とあれば、彼こそ已に垢を吐きたる聰き長老と謂はる。
書き下し
二五八 多く説くのみにては智者に非ず、穏かに、憎みなく、畏れなきは智者と謂はる。 二五九 多く説くのみにては持法者ならず、若し少法を聞きても、之を身に履修すれば、実に持法者なり、彼は法を忽にせず。 二六〇 頭髪白ければとて長老ならず、彼の齢熟し空しく老いたりと謂ふべきのみ。 二六一 人若し諦と法と不害と禁戒と柔善とあれば、彼こそ已に垢を吐きたる聰き長老と謂はる。
現代語訳
多く説くというだけでは智者ではない。穏やかで、憎しみなく、畏れのない人こそ智者と言われる。多く説くというだけでは法を持つ者ではない。もしわずかな法を聞いても、これを身に修めるなら、実に法を持つ者である。その人は法をおろそかにしない。頭髪が白いからといって長老ではない。その齢は熟しても、いたずらに老いたと言うべきだけである。人がもし真実と法と不害と禁戒と柔和とを備えているなら、その人こそ垢を吐き出した聡明な長老と言われる。
解説
この章句が説くこと
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