法句経 / 第十九 住法の部 二五六・二五七 軽卒に裁くなかれ
二五六 輕卒に公事を裁斷するは正しきに非ず、智者は實義と不實義との兩面を辨へよ。 二五七 暴威を用ゐず、公平に他を導き、正義を守り聰明なり、(是れ)住法者と謂はる。
新字:二五六 軽卒に公事を裁断するは正しきに非ず、智者は実義と不実義との両面を弁へよ。 二五七 暴威を用ゐず、公平に他を導き、正義を守り聰明なり、(是れ)住法者と謂はる。
書き下し
二五六 軽卒に公事を裁断するは正しきに非ず、智者は実義と不実義との両面を弁へよ。 二五七 暴威を用ゐず、公平に他を導き、正義を守り聡明なり、(是れ)住法者と謂はる。
現代語訳
軽々しく公の事を裁き決めるのは正しいことではない。智者は、真実であることと真実でないことの両面をわきまえよ。暴力的な威圧を用いず、公平に他の人を導き、正義を守って聡明である人、このような人が住法者(正義に立つ者)と呼ばれる。
解説
第十九章「住法の部」の冒頭の二偈である。住法は荻原の注に「正義」とあり、法(ダンマ)に立つ者の意である。この章は、裁く者、長老、沙門、牟尼など、それぞれの名に値する人とはどういう人かを問い直していく。その最初に置かれるのが裁く者の姿だ。「軽卒に公事を裁断する」ことが戒められ、実と不実の両面を弁えよと言う。片方の言い分だけを聞いて結論を急ぐことへの警告である。二五七偈は、暴威を用いず、公平に導くことを挙げる。力で従わせるのではなく、筋道で導く。正しさは結論の中身だけでなく、そこに至る手続きにも宿るという考え方が読み取れる。人事の判断でも、もめごとの裁定でも、急ぐほど片方しか見えなくなる。両面を聞く手間を惜しまないことが、公平の最低条件なのだろう。
関連する章句
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