呻吟語 / 内篇・談道・公・誠・從容の三つが明を生ず
公生明,誠生明,從容生明。公生明者,不蔽於私也;誠生明者,清虛所通也;從容生明者,不淆於感也。舍是無明道矣。
新字:公生明,誠生明,従容生明。公生明者,不蔽於私也;誠生明者,清虚所通也;従容生明者,不淆於感也。舎是無明道矣。
書き下し
公は明を生じ、誠は明を生じ、從容は明を生ず。公の明を生ずるは、私に蔽はれざればなり。誠の明を生ずるは、清虛の通ずる所なればなり。從容の明を生ずるは、感に淆れざればなり。是を舍きては明道無し。
現代語訳
公平さは明るさを生み、誠は明るさを生み、ゆったりとした構えは明るさを生みます。公平さが明るさを生むのは、私心に覆われないからです。誠が明るさを生むのは、澄んで空いた所が通じるからです。ゆったりとした構えが明るさを生むのは、その場の感情に濁らされないからです。これを措いて、道を明らかにする方法はありません。
解説
物事がはっきり見えるための条件を三つ挙げ、それぞれに理由を添えます。私心、濁り、感情という三つの曇りを取り除く作業だという整理です。知識を増やすことが一つも入っていないのが目を引きます。見えないのは情報が足りないからではなく、見る側が曇っているから。判断を誤ったときの点検表としてそのまま使えます。知識を増やす前に、曇りを取る順序を示した一段です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
公平誠従容明察判断
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