法句経 / 第十四 仏陀の部 一九〇〜一九二 この帰依は勝なり
一九〇 佛と法と僧とに歸依し、正慧を以て四の聖き諦を觀察し、 一九一 苦と、苦の起と、又苦の滅と、又苦盡に至る八支の聖道を(觀察すれば)、 一九二 此の歸依は勝なり、此の歸依は尊なり、此の歸依に因つて能く衆苦を解脱す。
新字:一九〇 仏と法と僧とに帰依し、正慧を以て四の聖き諦を観察し、 一九一 苦と、苦の起と、又苦の滅と、又苦尽に至る八支の聖道を(観察すれば)、 一九二 此の帰依は勝なり、此の帰依は尊なり、此の帰依に因つて能く衆苦を解脱す。
書き下し
一九〇 仏と法と僧とに帰依し、正慧を以て四の聖き諦を観察し、 一九一 苦と、苦の起と、又苦の滅と、又苦尽に至る八支の聖道を(観察すれば)、 一九二 此の帰依は勝なり、此の帰依は尊なり、此の帰依に因つて能く衆苦を解脱す。
現代語訳
仏と法と僧とに帰依し、正しい智慧によって四つの聖なる真理(四聖諦)を観察する。すなわち、苦と、苦の起こりと、また苦の滅と、また苦の尽きることに至る八つの支分からなる聖なる道(八正道)とを(観察するならば)、この帰依は勝れたものであり、この帰依は尊いものである。この帰依によって、もろもろの苦しみから解き放たれる。
解説
前の三偈で退けられた山や森への帰依に対して、真の帰依を示す三偈である。一八九偈と一九二偈がほぼ同じ言葉で、否定から肯定へと裏返されている。三宝、すなわち仏・法・僧への帰依が示され、それが四聖諦の観察と結びつけられる。荻原の注にあるとおり、四つの聖き諦とは次の偈の苦・苦の起・苦の滅・苦尽に至る道であり、最後の道が八正道である。ここで大事なのは、帰依がただ信じることではなく、「正慧を以て」観察することと一体になっている点だ。恐れからすがるのではなく、苦を見つめ、その原因を見極め、それが滅しうることを知り、そこへ至る道を歩む。帰依の対象よりも、帰依の仕方が問われている。問題を直視し、原因を探り、解決の道筋を描くという手順は、どんな課題に向き合うときにも通じる。
関連する章句
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