法句経 / 第十二 己身の部 一六四 実を結んで己を亡ぼす
一六四 尊き如法なる聖人の教を譏る愚人は惡見に據る、彼は劫吒迦樹の如く果熟すれば己を亡ぼす。
新字:一六四 尊き如法なる聖人の教を譏る愚人は悪見に拠る、彼は劫吒迦樹の如く果熟すれば己を亡ぼす。
書き下し
一六四 尊き如法なる聖人の教を譏る愚人は悪見に拠る、彼は劫吒迦樹の如く果熟すれば己を亡ぼす。
現代語訳
尊く、法にかなった聖者の教えをそしる愚かな者は、誤った見解(悪見)に拠っている。彼は劫吒迦樹(カッタカ、竹の一種)のように、実が熟すると自らを滅ぼしてしまう。
解説
「己身の部」の一偈で、正しい教えをそしる者の末路を植物にたとえる。劫吒迦樹はパーリ語のカッタカで、竹や葦の類とされる。この植物は実を結ぶと枯れてしまう。竹が花を咲かせると一斉に枯れるという話は日本でも知られている。ここでの要点は、滅びが外からの罰としてではなく、自らの成熟の結果として来ることだ。誤った見解に拠って教えをそしる行いは、やがて実を結ぶ。そして実が熟したそのときに、木そのものが倒れる。育てたものが自分を滅ぼすという構図である。「悪見」は、単に知識が誤っているというより、ものの見方が歪んでいることを指す。歪んだ見方でも、それなりに育ち、実をつけることはある。成果が出たから正しかったとは限らない、という警告としても読める。
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