法句経 / 第十一 老耄の部 一五五・一五六 魚なき池の老いた鷺
一五五 淨行を行ぜず、壯にして財を得ずんば魚なき池の中にて衰へたる鵝の(死する)如く死す。 一五六 淨行を行ぜず、壯にして財を得ずんば往事を追懷して臥す、敗箭の如し。
新字:一五五 浄行を行ぜず、壮にして財を得ずんば魚なき池の中にて衰へたる鵝の(死する)如く死す。 一五六 浄行を行ぜず、壮にして財を得ずんば往事を追懐して臥す、敗箭の如し。
書き下し
一五五 浄行を行ぜず、壮にして財を得ずんば魚なき池の中にて衰へたる鵝の(死する)如く死す。 一五六 浄行を行ぜず、壮にして財を得ずんば往事を追懐して臥す、敗箭の如し。
現代語訳
清らかな行い(梵行、禁欲の修行生活)を行わず、若いうちに財も得なかった者は、魚のいない池の中で衰えた鵝鳥が(死んでいく)ように死んでいく。清らかな行いを行わず、若いうちに財も得なかった者は、過ぎ去った日々を思い返しながら横たわる。射尽くされて力を失った矢のように。
解説
第十一章「老耄の部」を締めくくる二偈である。若いうちに清らかな修行もせず、世俗の財も築かなかった者の老後が、二つの像で描かれる。一つは魚のいなくなった池で痩せ衰えてゆく鵝鳥。パーリ語では鷺の類とされ、じっと水辺に立って魚を待つ鳥である。待つ姿勢は変わらないのに、池のほうが涸れてしまった。もう一つは「敗箭」、射られて勢いを失い地に落ちた矢である。放たれた後の矢はもう軌道を変えられず、ただ横たわって昔を思うしかない。注意したいのは、修行と財の両方が並べられている点で、出家の道でも在家の道でも、時を逃すことを問題にしている。何かを積むのに適した時期は限られている、という当たり前の事実を、池と矢は静かに突きつける。
関連する章句
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