法句経 / 第八 千の部 一〇六〜一〇八 一須臾の供養
一〇六 一人は月々千回祠り、百歳を經、一人は一須臾たりとも修養せる人を供養せんに、其の供養は百歳の祠に勝る。 一〇七 人あり、百歳の間、林の中にて阿祁尼に奉事し、一人は一須臾たりとも修養せる人を供養せんに、其の供養は百歳の祠に勝る。 一〇八 世の中に、或は犧牲を供へ、或は火に供物を投じて福を求めて一年を通じて供養し、其全部を擧げても四分の一にも値ひせず、直者を禮敬するに如かず。
新字:一〇六 一人は月々千回祠り、百歳を経、一人は一須臾たりとも修養せる人を供養せんに、其の供養は百歳の祠に勝る。 一〇七 人あり、百歳の間、林の中にて阿祁尼に奉事し、一人は一須臾たりとも修養せる人を供養せんに、其の供養は百歳の祠に勝る。 一〇八 世の中に、或は犠牲を供へ、或は火に供物を投じて福を求めて一年を通じて供養し、其全部を挙げても四分の一にも値ひせず、直者を礼敬するに如かず。
書き下し
一〇六 一人は月々千回祠り、百歳を経、一人は一須臾たりとも修養せる人を供養せんに、其の供養は百歳の祠に勝る。 一〇七 人あり、百歳の間、林の中にて阿祁尼に奉事し、一人は一須臾たりとも修養せる人を供養せんに、其の供養は百歳の祠に勝る。 一〇八 世の中に、或は犠牲を供へ、或は火に供物を投じて福を求めて一年を通じて供養し、其全部を挙げても四分の一にも値ひせず、直者を礼敬するに如かず。
現代語訳
ある人は毎月千回ずつ祭祀を行って百年を過ごし、ある人はほんの一瞬でも修養を積んだ人を供養する。その供養は百年の祭祀に勝る。ある人は百年のあいだ林の中で阿祁尼(火の神)に仕え、ある人はほんの一瞬でも修養を積んだ人を供養する。その供養は百年の祭祀に勝る。世の中で、あるいは犠牲を供え、あるいは火に供物を投じて、福を求めて一年を通じて供養しても、そのすべてを合わせても四分の一の値打ちもない。まっすぐな人(阿羅漢)を敬い礼拝することには及ばない。
解説
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