史記 / 周本紀
太史公曰:學者皆稱周伐紂,居洛邑,綜其實不然。武王營之,成王使召公卜居,居九鼎焉,而周復都豐、鎬。至犬戎敗幽王,周乃東徙于洛邑。所謂「周公葬於畢」,畢在鎬東南杜中。秦滅周。漢興九十有餘載,天子將封泰山,東巡狩至河南,求周苗裔,封其後嘉三十里地,號曰周子南君,比列侯,以奉其先祭祀。
新字:太史公曰:学者皆称周伐紂,居洛邑,綜其実不然。武王営之,成王使召公卜居,居九鼎焉,而周復都豊、鎬。至犬戎敗幽王,周乃東徙于洛邑。所謂「周公葬於畢」,畢在鎬東南杜中。秦滅周。漢興九十有余載,天子将封泰山,東巡狩至河南,求周苗裔,封其後嘉三十里地,号曰周子南君,比列侯,以奉其先祭祀。
書き下し
太史公曰く、学者皆周紂を伐ちて、洛邑に居ると称す。其の実を綜ぶるに然らず。武王之を営み、成王召公をして居を卜せしめ、九鼎を居く。而して周復た豊・鎬に都す。犬戎の幽王を敗るに至りて、周乃ち東のかた洛邑に徙る。所謂「周公畢に葬る」の畢は、鎬の東南の杜中に在り。秦周を滅ぼす。漢興りて九十有余載、天子将に泰山に封ぜんとし、東に巡狩して河南に至り、周の苗裔を求め、其の後嘉を三十里の地に封じ、号して周子南君と曰ひ、列侯に比し、以て其の先の祭祀を奉ぜしむ。
現代語訳
太史公は言う。学者たちはみな、周は紂を討った後、洛邑に都を置いたと言う。しかしその実際を総合して考えると、そうではない。武王は洛邑を造営し、成王は召公に住むべき地を占わせて九鼎を安置したが、周は再び豊・鎬に都を置いた。犬戎が幽王を破るに及んで、周ははじめて東の洛邑に移ったのである。いわゆる「周公を畢に葬る」の畢は、鎬の東南の杜の中にある。秦が周を滅ぼした。漢が興って九十年余り、天子(武帝)が泰山で封禅の儀式を行おうとして東に巡狩し、河南に至ったとき、周の子孫を探し求め、その子孫の嘉を三十里の地に封じて周子南君と号し、列侯と同じ待遇にして、先祖の祭祀を行わせた。
解説
関連する章句
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史記 周本紀今王卒をして周に之かしむれば、諸侯皆心を生じ、後に事を挙ぐるも且に信ぜられざらんとす。卒をして周の為に城かしめ、以て事端を匿すに若かず」と。梁王曰く、「善し」と。遂に周に城かしむ。四十五年、周君の秦に之く客周聚に謂ひて曰く、「公秦王の孝を誉め、因りて応を以て太后の養地と為すに若かず。秦王必ず喜び、是れ公秦の交はり有るなり。交はり善ければ、周君必ず以て公の功と為さん。交はり悪しければ、周君に秦に入るを勧めし者必ず罪有らん」と。秦周を攻む。而して周聚秦王に謂ひて曰く、「王の為に計る者は周を攻めず。周を攻むるは、実は以て利するに足らず、声は天下を畏れしむ。天下声を以て秦を畏れ、必ず東のかた斉に合せん。兵周に獘れ、天下を斉に合せしむれば、則ち秦王たらず。天下秦を獘れしめんと欲し、王に周を攻むるを勧む。秦天下と獘れば、則ち令行はれず」と。五十八年、三晋秦を距ぐ。周其の相国をして秦に之かしむるに、秦の軽んずるを以て、其の行を還す。客相国に謂ひて曰く、「秦の軽重未だ知る可からず。秦三国の情を知らんと欲す。公急ぎ秦王に見えて曰ふに如かず、『請ふ王の為に東方の変を聴かん』と。秦王必ず公を重んぜん。公を重んずるは、是れ秦周を重んずるなり、周以て秦を取るなり。斉重んずれば、則ち固より周聚有りて以て斉を収む。是れ周常に重国の交はりを失はざるなり」と。秦周を信じ、兵を発して三晋を攻む。五十九年、秦韓の陽城・負黍を取る。西周恐れ、秦に倍き、諸侯と従を約し、天下の鋭師を将ゐて伊闕を出でて秦を攻め、秦をして陽城に通ずるを得無からしめんとす。秦の昭王怒り、将軍摎をして西周を攻めしむ。西周の君秦に犇り、頓首して罪を受け、尽く其の邑三十六、口三万を献ず。秦其の献を受け、其の君を周に帰す。周君・王赧卒し、周の民遂に東に亡ぐ。秦九鼎宝器を取り、而して西周公を憚狐に遷す。後七歳、秦の荘襄王東周を滅ぼす。東西周皆秦に入り、周既に祀られず。
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史記 殷本紀周の武王遂に紂の頭を斬り、之を大白旗に県く。妲己を殺す。箕子の囚を釈き、比干の墓を封じ、商容の閭を表す。紂の子武庚禄父を封じて、以て殷の祀を続がしめ、盤庚の政を修行せしむ。殷の民大いに説ぶ。是に於て周の武王天子と為る。其の後世帝号を貶して、号して王と為す。而して殷の後を封じて諸侯と為し、周に属せしむ。周の武王崩じ、武庚管叔・蔡叔と乱を作す。成王周公に命じて之を誅せしめ、而して微子を宋に立て、以て殷の後を続がしむ。太史公曰く、余頌を以て契の事を次で、成湯より以来は、書・詩に采る。契は子姓為り、其の後分封せられ、国を以て姓と為す。殷氏・来氏・宋氏・空桐氏・稚氏・北殷氏・目夷氏有り。孔子曰く、殷の路車を善しと為し、而して色は白を尚ぶと。
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史記 魯周公世家其の高宗に在りては、久しく外に労し、小人と与に為る。其の即位するを作すや、乃ち亮闇有り、三年言はず。言へば乃ち讙ぶ。敢て荒寧せず、殷国を密靖し、小大に至るまで怨無し。故に高宗、国を饗くること五十五年。其の祖甲に在りては、王たるを不義とし、久しく外に小人為り、小人の依を知り、能く小民を保施し、寡を侮らず。故に祖甲、国を饗くること三十三年」と。多士に称して曰く、「湯より帝乙に至るまで、祀を率ひ徳を明らかにせざる無く、帝の天に配せざる者無し。今の後嗣の王紂に在りては、誕に厥の佚に淫し、天及び民の従ふ所を顧みず。其の民皆誅す可し」と。「文王は日中昃くまで食するに暇あらず、国を饗くること五十年」と。此を作りて以て成王を誡む。成王豊に在り、天下已に安し。周の官政未だ次序あらず。是に於て周公、周官を作り、官ごとに其の宜しきを別ち、立政を作りて、以て百姓を便にす。百姓説ぶ。周公豊に在りて、病みて将に没せんとして、曰く、「必ず我を成周に葬り、以て吾の敢て成王を離れざるを明らかにせよ」と。周公既に卒し、成王も亦譲り、周公を畢に葬り、文王に従はしめ、以て予小子の敢て周公を臣とせざるを明らかにす。
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史記 周本紀武王已に殷に克ち、後二年、箕子に殷の亡びし所以を問ふ。箕子殷の悪を言ふに忍びず、存亡の国の宜しきを以て告ぐ。武王も亦醜ぢ、故に問ふに天道を以てす。武王病む。天下未だ集まらず、群公懼れ、穆卜す。周公乃ち祓斎し、自ら質と為り、武王に代はらんと欲す。武王瘳ゆる有り。後にして崩じ、太子誦代はりて立つ。是を成王と為す。成王少く、周初めて天下を定む。周公諸侯の周に畔かんことを恐れ、公乃ち摂行して政し国に当たる。管叔・蔡叔の群弟周公を疑ひ、武庚と乱を作し、周に畔く。周公成王の命を奉じ、武庚・管叔を伐ちて誅し、蔡叔を放つ。微子開を以て殷の後に代へ、宋に国せしむ。頗る殷の余民を収め、以て武王の少弟封を封じて衛の康叔と為す。晋の唐叔嘉穀を得、之を成王に献ず。成王以て周公に兵所に帰る。周公禾を東土に受け、天子の命を魯ぶ。初め、管・蔡周に畔き、周公之を討ち、三年にして畢く定む。故に初めに大誥を作り、次に微子之命を作り、次に帰禾、次に嘉禾、次に康誥・酒誥・梓材を作る。其の事は周公の篇に在り。周公政を行ふこと七年、成王長じ、周公政を成王に反し、北面して群臣の位に就く。成王豊に在り、召公をして復た洛邑を営ましむ、武王の意の如し。周公復た卜して申ねて視、卒に営築し、九鼎を居く。曰く、「此れ天下の中にして、四方の入貢の道里均し」と。召誥・洛誥を作る。成王既に殷の遺民を遷し、周公王命を以て告げ、多士・無佚を作る。召公保と為り、周公師と為り、東のかた淮夷を伐ち、奄を残し、其の君を薄泵に遷す。成王奄より帰り、宗周に在りて、多方を作る。既に殷の命を絀け、淮夷を襲ひ、帰りて豊に在り、周官を作る。礼楽を興正し、度制是に於て改まり、而して民和睦し、頌声興る。成王既に東夷を伐ち、息慎来たりて賀す。王栄伯に賜ひて賄息慎之命を作らしむ。
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史記 周本紀是に於て諸侯乃ち申侯に即きて共に故の幽王の太子宜臼を立つ。是を平王と為し、以て周の祀を奉ず。平王立ちて、東のかた雒邑に遷り、戎寇を辟く。平王の時、周室衰微し、諸侯彊は弱を并せ、斉・楚・秦・晋始めて大きく、政は方伯に由る。四十九年、魯の隠公即位す。五十一年、平王崩ず。太子洩父早く死し、其の子林を立つ。是を桓王と為す。桓王は、平王の孫なり。桓王の三年、鄭の荘公朝す。桓王礼せず。五年、鄭怨み、魯と許田を易ふ。許田は、天子の太山に事を用ゐるの田なり。八年、魯隠公を殺し、桓公を立つ。十三年、鄭を伐つ。鄭桓王を射傷し、桓王去りて帰る。二十三年、桓王崩じ、子荘王佗立つ。荘王の四年、周公黒肩荘王を殺して王子克を立てんと欲す。辛伯王に告げ、王周公を殺す。王子克燕に奔る。十五年、荘王崩じ、子釐王胡斉立つ。釐王の三年、斉の桓公始めて霸たり。五年、釐王崩じ、子恵王閬立つ。恵王の二年。初め、荘王姚を嬖姫とし、子穨を生む。穨寵有り。恵王即位するに及び、其の大臣の園を奪ひて以て囿と為す。故に大夫辺伯等五人乱を作し、燕・衛の師を召して、恵王を伐たんと謀る。恵王温に犇り、已にして鄭の櫟に居る。釐王の弟穨を立てて王と為す。楽して徧舞に及ぶ。鄭・虢の君怒る。四年、鄭と虢の君王穨を伐ちて殺し、復た恵王を入る。恵王の十年、斉の桓公に賜ひて伯と為す。二十五年、恵王崩じ、子襄王鄭立つ。襄王の母蚤く死し、後母を恵后と曰ふ。恵后叔帯を生み、恵王に寵有り、襄王之を畏る。三年、叔帯戎・翟と謀りて襄王を伐たんとす。襄王叔帯を誅せんと欲し、叔帯斉に奔る。斉の桓公管仲をして戎を周に平らげしめ、隰朋をして戎を晋に平らげしむ。王上卿の礼を以て管仲を礼す。
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史記 封禅書後五世、帝武乙、神を慢りて震死す。後三世、帝紂淫乱にして、武王之を伐つ。此に由りて之を観れば、始めは未だ嘗て粛祗せずんばあらず、後稍く怠慢なり。周官に曰く、冬日至に、天を南郊に祀り、長日の至るを迎ふ。夏日至に、地祇を祭る。皆楽舞を用ひて、神乃ち得て礼す可きなり。天子は天下の名山大川を祭り、五岳は三公に視へ、四瀆は諸侯に視ふ。諸侯は其の疆内の名山大川を祭る。四瀆とは、江・河・淮・済なり。天子には明堂・辟雍と曰ひ、諸侯には泮宮と曰ふ。周公既に成王に相として、后稷を郊祀して以て天に配し、文王を明堂に宗祀して以て上帝に配す。禹の興りしより社祀を修め、后稷は稼穡す、故に稷祠有り、郊社の従りて来る所は尚し。周の殷に克ちし後十四世より、世益々衰へ、礼楽廃れ、諸侯恣に行ひ、而して幽王、犬戎の敗る所と為り、周、東して雒邑に徙る。秦の襄公、戎を攻めて周を救ひ、始めて列して諸侯と為る。秦の襄公既に侯となり、西垂に居り、自ら以為へらく少皞の神を主ると、西畤を作り、白帝を祠る。其の牲は騮駒・黄牛・羝羊各一を用ふと云ふ。其の後十六年、秦の文公、東して汧・渭の間に猟し、之に居らんことを卜して吉なり。文公、黄蛇の天より下りて地に属し、其の口の鄜衍に止まるを夢む。文公、史敦に問ふ。敦曰く、「此れ上帝の徴なり、君其れ之を祠れ」と。是に於て鄜畤を作り、三牲を用ひて白帝を郊祭す。未だ鄜畤を作らざるよりして、雍の旁に故より呉陽の武畤有り、雍の東に好畤有り、皆廃れて祠無し。或ひと曰く、「古より雍州は積みて高く、神明の隩なるを以て、故に畤を立てて上帝を郊し、諸神の祠皆聚まると云ふ。蓋し黄帝の時嘗て事を用ひ、晩周と雖も亦郊す」と。其の語は経に見えず、縉紳の者は道はず。鄜畤を作りて後九年、文公、石の若きものを獲て、陳倉の北阪の城に之を祠る。
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