法句経 / 第七 阿羅漢の部 九三・九四 よく馴らされた馬
九三 若し人心の穢を盡し、飮食を樂著せず、(心)空、無相、解脱に遊ぶときは、其人の行跡は尋ぬべきこと難し、猶ほ虚空に於ける鳥の(跡の)如し。 九四 若し人感官を制し、御者に善く馴らされたる馬の如くし、貢慢を斷ち、心の穢を盡せば、諸神すら、斯かる如なる人を羨む。
新字:九三 若し人心の穢を尽し、飲食を楽著せず、(心)空、無相、解脱に遊ぶときは、其人の行跡は尋ぬべきこと難し、猶ほ虚空に於ける鳥の(跡の)如し。 九四 若し人感官を制し、御者に善く馴らされたる馬の如くし、貢慢を断ち、心の穢を尽せば、諸神すら、斯かる如なる人を羨む。
書き下し
九三 若し人心の穢を尽し、飲食を楽著せず、(心)空、無相、解脱に遊ぶときは、其人の行跡は尋ぬべきこと難し、猶ほ虚空に於ける鳥の(跡の)如し。 九四 若し人感官を制し、御者に善く馴らされたる馬の如くし、貢慢を断ち、心の穢を尽せば、諸神すら、斯かる如なる人を羨む。
現代語訳
もし人が心の汚れを尽くし、飲食に執著せず、(心が)空・無相・解脱に遊ぶならば、その人の行く跡はたどることが難しい。ちょうど大空を飛ぶ鳥(の跡)のように。もし人が感覚器官を制し、御者によく馴らされた馬のようにし、驕り高ぶりを断ち、心の汚れを尽くすならば、神々でさえ、そのような(真理のままに到った)人を羨む。
解説
九三偈は前の九二偈とほぼ同じ形を繰り返し、「蓄積する所なく」を「心の穢を尽くし、飲食を楽著せず」に置き換えている。同じ結句を響かせる作りである。九四偈では比喩が馬に替わる。感官、つまり目や耳や舌を、御者に馴らされた馬のように扱うという。暴れ馬を殺すのではなく、手綱に応える馬に育てる。感覚を否定するのではなく、御することが求められている。「貢慢」は驕り高ぶりで、ここを断つことが心の穢を尽くすことと並べられる。そうした人を「諸神すら」羨むという結びは、古代インドの世界観では神々もまた輪廻の内にある存在だったことを踏まえている。荻原の注によれば「如なる人」は仏の阿羅漢弟子を指す。欲や衝動を消すのではなく乗りこなすという発想は、自分を律する方法を考える人に一つの型を示している。
関連する章句
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