法句経 / 第七 阿羅漢の部 九五・九六
九五 如なる人は地の如く爭はず、閾の如く能く愼しみ、淤泥なき池の如し、如なる人に輪廻なし。 九六 意寂靜、語も業も亦寂靜なる如なる人は、正智にて解脱し、安穩を得たる人なり。
新字:九五 如なる人は地の如く争はず、閾の如く能く慎しみ、淤泥なき池の如し、如なる人に輪廻なし。 九六 意寂静、語も業も亦寂静なる如なる人は、正智にて解脱し、安穏を得たる人なり。
書き下し
九五 如なる人は地の如く争はず、閾の如く能く慎しみ、淤泥なき池の如し、如なる人に輪廻なし。 九六 意寂静、語も業も亦寂静なる如なる人は、正智にて解脱し、安穏を得たる人なり。
現代語訳
真人は大地のように争わず、敷居のようによく慎み、泥のない池のようである。真人に輪廻はない。心が静まり、語ることも行うことも静まった真人は、正しい智慧によって解脱し、安らぎを得た人である。
解説
「地の如く爭はず」に荻原は註を付けている——世の毀りや嗤いや貶めを甘んじて受けることをいう、と。大地は踏まれても抗弁しない。「閾の如く愼しみ」の閾は敷居で、註には「踏みつけられても身口に怒を發せざるなり」とある。どちらも、踏まれる側の比喩である。強くなって踏まれないようにする話ではなく、踏まれてなお動じない話だ。そこに「淤泥なき池」が加わる。泥がなければ、かき回されても濁らない。濁らないのは我慢しているからではなく、濁る材料が中に無いからである。九六の三つの「寂靜」——意と語と業。心が静かでも言葉が荒れる人、言葉が丁寧でも行いが乱れる人がいる。三つそろって初めて静けさと呼ばれている。
この章句が説くこと
地の如く争わず閾の如く慎む淤泥なき池意語業の寂静