抱朴子外篇 / 尚博
或曰:「今世所為,多不及古,文章著述,又亦如之。豈氣運衰殺,自然之理乎?」抱朴子答曰:「百家之言,雖有步起,皆出碩儒之思,成才士之手,方之古人,不必悉減也。或有汪濊玄曠,合契作者,內辟不測之深源,外播不匱之遠流,其所祖宗也高,其所紬繹也妙,變化不系滯於規矩之方圓,旁通不凝閡於一途之逼促,是以偏嗜酸鹹者,莫能知其味,用思有限者,不能得其神也。夫應龍徐舉,顧眄淩雲,汗血緩步,呼吸千里,而螻蟲豈怪其無階而高致,駑蹇患其過己之不漸也。若夫馳驟於詩論之中,周旋於傳記之間,而以常情覽巨異,以褊量測無涯,以至粗求至精,以甚淺揣甚深,雖始自髫齔,訖於振素,猶不得也。
新字:或曰:「今世所為,多不及古,文章著述,又亦如之。豈気運衰殺,自然之理乎?」抱朴子答曰:「百家之言,雖有歩起,皆出碩儒之思,成才士之手,方之古人,不必悉減也。或有汪濊玄曠,合契作者,内辟不測之深源,外播不匱之遠流,其所祖宗也高,其所紬繹也妙,変化不系滞於規矩之方円,旁通不凝閡於一途之逼促,是以偏嗜酸鹹者,莫能知其味,用思有限者,不能得其神也。夫応竜徐舉,顧眄淩雲,汗血緩歩,呼吸千里,而螻虫豈怪其無階而高致,駑蹇患其過己之不漸也。若夫馳驟於詩論之中,周旋於伝記之間,而以常情覧巨異,以褊量測無涯,以至粗求至精,以甚浅揣甚深,雖始自髫齔,訖於振素,猶不得也。
書き下し
或ひと曰く、「今世の為す所は、多く古に及ばず。文章著述も、又た亦た之の如し。豈に気運衰殺するは、自然の理なるか」と。抱朴子答えて曰く、「百家の言は、歩起有りと雖も、皆な碩儒の思いより出で、才士の手に成る。古人に方ぶれば、必ずしも悉くは減らず。或いは汪濊玄曠にして作者に合契し、内には不測の深源を辟き、外には不匱の遠流を播く者有り。其の祖宗とする所は高く、其の紬繹する所は妙なり。変化は規矩の方円に系滞せず、旁通は一途の逼促に凝閡せず。是を以て偏えに酸鹹を嗜む者は、其の味を知る能わず、思いを用うること限り有る者は、其の神を得る能わず。夫れ応龍は徐ろに挙がり、顧眄して雲を淩ぎ、汗血は緩やかに歩み、呼吸に千里す。而るに螻蟲は豈に其の階無くして高く致るを怪しみ、駑蹇は其の己に過ぐるの漸ならざるを患えんや。若し夫れ詩論の中に馳駆し、伝記の間に周旋して、常情を以て巨異を覧、褊量を以て無涯を測り、至粗を以て至精を求め、甚だ浅きを以て甚だ深きを揣らば、髫齔に始まり振素に訖ると雖も、猶お得ざるなり。
現代語訳
ある人は言う。「今の世のなすところは、多く古に及ばない。文章や著述もまたそうである。これは気運が衰え弱まるのが、自然の理だからではないか」と。抱朴子は答えて言う。「百家の言は、歩み起こるところこそあれ、いずれも碩学の思索から出て、才ある士の手で成ったものである。古人に比べて、必ずしもすべて劣ってはいない。あるいは広く深く果てしなく作者の意に合い、内には測りがたい深い源を開き、外には尽きない遠い流れを広める者がいる。その祖として仰ぐものは高く、その手繰り出すものは妙である。変化は規矩の方円に滞らず、広く通じることは一つの道の狭さに凝り固まらない。だから酸っぱいものやしょっぱいものばかり好む者はその味を知ることができず、思いの用い方に限りがある者はその神髄を得ることができない。応龍はゆっくり上がっても、ひと目で雲を越え、汗血の馬は緩やかに歩んでも、一息で千里を行く。それなのにおけらが、階段もなく高く至ることを怪しんだり、鈍い駄馬が、己を追い越すのが徐々でないことを患ったりするだろうか。もし詩論の中を駆け回り、伝記の間をめぐって、常の情でとびぬけた異なるものを見、狭い度量で果てしないものを測り、きわめて粗いもので最も精しいものを求め、ひどく浅いものでひどく深いものを推し量るなら、幼少に始まり白髪になるまで続けても、まだ得られない。
解説
この章句が説くこと
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