抱朴子外篇 / 疾謬
余每折之曰:夫中州,禮之所自出也。禮豈然乎!蓋衰亂之所興,非治世之舊風也。夫老聃,清虛之至者也,猶不敢見乎所欲,以防心亂,若使柳下惠潔高行,屢接褻宴,將不能不使情生於中,而色形於表,況乎情淡者萬未一,而抑情者難多得。如斯之事,何足長乎?窮士雖知此風俗不足引進,而名勢並乏,何以整之!每以為慨,故常獲憎於斯黨,而見謂為野樸之人,不能隨時之宜,余期於信己而已,亦安以我之不可,從人之可乎!可嘆非一,率如此也。已矣夫,吾未如之何也!彼之染入邪俗,淪胥以敗者,曷肯納逆耳之讜言,而反其東走之遠跡哉!
新字:余毎折之曰:夫中州,礼之所自出也。礼豈然乎!蓋衰乱之所興,非治世之旧風也。夫老聃,清虚之至者也,猶不敢見乎所欲,以防心乱,若使柳下恵潔高行,屡接褻宴,将不能不使情生於中,而色形於表,況乎情淡者万未一,而抑情者難多得。如斯之事,何足長乎?窮士雖知此風俗不足引進,而名勢並乏,何以整之!毎以為慨,故常獲憎於斯党,而見謂為野樸之人,不能随時之宜,余期於信己而已,亦安以我之不可,従人之可乎!可嘆非一,率如此也。已矣夫,吾未如之何也!彼之染入邪俗,淪胥以敗者,曷肯納逆耳之讜言,而反其東走之遠跡哉!
書き下し
余は每に之を折りて曰く、夫れ中州は、礼の自りて出ずる所なり。礼は豈に然らんや。蓋し衰乱の興る所にして、治世の旧風に非ざるなり。夫れ老聃は、清虚の至りなる者なるも、猶お敢えて欲する所を見ず、以て心の乱るるを防ぐ。若し柳下恵をして高行を潔くし、屡々褻宴に接せしめば、将に情を中に生じ、色を表に形さざる能わざらんとす。況んや情淡き者は万に未だ一ならず、而して情を抑うる者は多きを得難し。斯くの如きの事、何ぞ長ずるに足らん。窮士は此の風俗の引進するに足らざるを知ると雖も、名勢並びに乏しければ、何を以て之を整えん。每に以て慨を為す。故に常に斯の党に憎まれ、野樸の人にして、時の宜しきに随う能わずと謂わる。余は己を信ずるに期するのみ。亦た安んぞ我の不可を以て、人の可に従わんや。嘆く可きは一に非ず、率ね此の如し。已んぬるかな、吾未だ之を如何ともする無し。彼の邪俗に染入し、淪胥して以て敗るる者は、曷ぞ肯えて逆耳の讜言を納れ、反って其の東走の遠き跡を返さんや。
現代語訳
私はいつもこれに反論して言う。中原は礼の生まれたところである。だが礼はそんなものだろうか。思うに、これは衰乱が生んだ風習で、治世の昔からの風ではない。老聃は清らかで虚心の至りの人だが、それでも敢えて欲するものを見ないようにして、心が乱れるのを防いだ。もし柳下恵に高い行いを清く保たせても、しばしばくだけた宴に接させれば、情が心の中に生じ、色が外に現れずにはおれないだろう。まして情が淡い人は万人に一人もおらず、情を抑えられる人も多くは得られない。こうした事を、どうして長らえさせてよいだろうか。困窮した士は、この風俗が進めるに値しないと分かっていても、名も勢いもなければ、どうやって正せようか。いつもそれを嘆いている。だから常にこの党に憎まれ、野暮ったい人間で、時の宜しきに従えないと言われる。私は自分を信じることを期するだけである。どうして私の否とすることを、他人の可とすることに従わせようか。嘆くべきことは一つではなく、おおむねこのようである。もはやどうしようもない。邪な風俗に染まり、共に沈んで敗れる者が、どうして耳に痛い正論を受け入れ、東へ走った遠い跡を引き返すだろうか。
解説
この章句が説くこと
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『学問のすゝめ』十六編・心事と働きと相当すべきの論・みだりに人を軽蔑する者はまた心事高尚にして働きに乏しき者は、人に厭われて孤立することあり。己が働きと他人の働きとを比較すればもとより及ぶべきにあらざれども、己が心事をもって他の働きを見れば、これに満足すべからずして、おのずから私に軽蔑の念なきを得ず。みだりに人を軽蔑する者は、必ずまた人の軽蔑を免るべからず。互いに相不平をいだき、互いに相蔑視して、ついには変人奇物の嘲りを取り、世間に歯すべからざるに至るものなり。今日世の有様を見るにあるいは傲慢不遜にして人に厭わるる者あり、あるいは人に勝つことを欲して人に厭わるる者あり、あるいは人に多を求めて人に厭わるる者あり、あるいは人を誹謗して人に厭わるる者あり。いずれもみな人に対して比較するところを失い、己が高尚なる心事をもって標的となし、これに照らすに他の働きをもってして、その際に恍惚たる想像を造り、もって人に厭わるるの端を開き、ついにみずから人を避けて独歩孤立の苦界に陥る者なり。
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『呻吟語』内篇・問學・根腳站立し住まらず道學の行はれざるは、只だ自家の根腳站立し住まらざるが為なり。或いは倡へて和せざれば、則ち勢孤なり。或いは守りて眾撓せば、則ち志惑ふ。或いは為して成らざれば、則ち氣沮む。或いは風俗に奪はるれば、則ち念雜なり。挺身自ら拔かんと要せば、須らく是れ萬夫も當たる莫きの勇、死して後已むの心有るべし。然らずんば、終日三五聚談し、唇を焦がし舌を敝らすも、甚の事をか成し得ん。
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史記 項羽本紀美人有り名は虞、常に幸せられて従ふ。駿馬名は騅、常に之に騎る。是に於て項王乃ち悲歌忼慨し、自ら詩を為りて曰く、「力は山を抜き気は世を蓋ふ、時利あらず騅逝かず。騅の逝かざる可奈何(いかん)すべき、虞や虞や若を奈何せん。」と。歌ふこと数闋、美人之に和す。項王泣数行下る、左右皆泣き、能く仰ぎ視る莫し。是に於て項王乃ち馬に上りて騎す、麾下の壮士騎して従ふ者八百余人、直ちに夜囲みを潰して南に出で、馳走す。平明、漢の軍乃ち之を覚り、騎将灌嬰をして五千騎を以て之を追はしむ。項王淮を渡る、騎の能く属する者百余人のみ。項王陰陵に至り、迷ひて道を失ひ、一田父に問ふ、田父紿(あざむ)きて曰く「左」と。左すれば、乃ち大沢の中に陥る。故を以て漢之に追ひ及ぶ。項王乃ち復た兵を引きて東し、東城に至る、乃ち二十八騎有り。漢の騎の追ふ者数千人。
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史記 田敬仲完世家十四年、秦我が剛寿を撃つ。十九年、襄王卒し、子建立つ。王建立ちて六年、秦趙を攻む。斉・楚之を救ふ。秦計りて曰く、「斉・楚趙を救ふ。親しまば則ち兵を退け、親しまずんば遂に之を攻めん」と。趙食無く、粟を斉に請ふ。斉聴かず。周子曰く、「之を聴きて以て秦の兵を退くるに如かず。聴かずんば則ち秦の兵卻かず。是れ秦の計中りて斉・楚の計過つなり。且つ趙の斉・楚に於けるや、捍蔽なり。猶ほ歯の脣有るがごとし。脣亡ぶれば則ち歯寒し。今日趙を亡ぼさば、明日患ひ斉・楚に及ばん。且つ趙を救ふの務めは、宜しく漏甕を奉じて焦釜に沃ぐが若くすべし。夫れ趙を救ふは、高義なり。秦の兵を卻くるは、顕名なり。義もて亡国を救ひ、威もて彊秦の兵を卻く。此を為すを務めずして粟を愛しむを務むるは、国の為に計る者過てり」と。斉王聴かず。秦趙を長平に破ること四十余万、遂に邯鄲を囲む。十六年、秦周を滅ぼす。君王后卒す。二十三年、秦東郡を置く。二十八年、王入りて秦に朝す。秦王政酒を咸陽に置く。三十五年、秦韓を滅ぼす。三十七年、秦趙を滅ぼす。三十八年、燕荊軻をして秦王を刺さしむ。秦王覚り、軻を殺す。明年、秦燕を破る。燕王亡げて遼東に走る。明年、秦魏を滅ぼす。秦の兵歴下に次る。四十二年、秦楚を滅ぼす。明年、代王嘉を虜にし、燕王喜を滅ぼす。四十四年、秦の兵斉を撃つ。斉王相后勝の計を聴き、戦はずして、兵を以て秦に降る。秦王建を虜にし、之を共に遷す。遂に斉を滅ぼして郡と為す。天下壱に秦に并せられ、秦王政号を立てて皇帝と為る。始め、君王后賢にして、秦に事ふること謹み、諸侯と信あり。斉も亦東のかた海上に辺す。秦日夜三晋・燕・楚を攻め、五国各々自ら秦より救ふ。故を以て王建立ちて四十余年兵を受けず。
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