日暮硯 / 『日暮硯』未進を赦し皆に下される
評曰、此時木工殿の額色、二た目と見られぬ程おそろしき樣子にて、面を擧げたるもの一人もなかりしとなり。軈て面を和らげ「併し、斯くいふも亦皆理窟なり、殿樣御勝手御不如意なる事も存知の前、御用金を出し、先々納迄差上げる者も有る中に、未進をするといふは、能々貧にて、內證に一物なき故の事成るべし、お身達も定めて人並に御年貢上納仕度く思ふべけれども、不仕合にあふか、長病らひするか、又は不時の災難に逢ひ、耕作も存分に成らず、收納少き故の事成るべし、嘸難儀なるべし、甚だ不便千萬、氣の毒なる事なり、又役人もお身達が物なきといふ事を能く知りたる故、未進をも許容して置きたる物ならん、是は役人の仁政といふ物にて、有り難き事なり、されば唯今未進を差し上げよと申付けたればとて、元來なきものを差し上げる手段も有るまじ、仍て、未進を御取成さらぬは御上の御損とし、上納せぬ分をお身達の德として唯今迄の未進の分は、以後上納に及ばず、殘らずお身達に下さるゝ程に、左樣に相心得べく候」「有り難き仕合に存じ奉り候」「其の代りに、當御年貢を、一粒でも未進さする事が有るにおいては、急度曲事に申付くべし、左樣に相心得べく候」「畏り奉り候、たとへ裸に相成り候ても上納仕るべく候」「然らば此の者共も、手前が申す儀得心にて滿足致候。」
新字:評曰、此時木工殿の額色、二た目と見られぬ程おそろしき様子にて、面を挙げたるもの一人もなかりしとなり。軈て面を和らげ「併し、斯くいふも亦皆理窟なり、殿様御勝手御不如意なる事も存知の前、御用金を出し、先々納迄差上げる者も有る中に、未進をするといふは、能々貧にて、内証に一物なき故の事成るべし、お身達も定めて人並に御年貢上納仕度く思ふべけれども、不仕合にあふか、長病らひするか、又は不時の災難に逢ひ、耕作も存分に成らず、収納少き故の事成るべし、嘸難儀なるべし、甚だ不便千万、気の毒なる事なり、又役人もお身達が物なきといふ事を能く知りたる故、未進をも許容して置きたる物ならん、是は役人の仁政といふ物にて、有り難き事なり、されば唯今未進を差し上げよと申付けたればとて、元来なきものを差し上げる手段も有るまじ、仍て、未進を御取成さらぬは御上の御損とし、上納せぬ分をお身達の徳として唯今迄の未進の分は、以後上納に及ばず、残らずお身達に下さるゝ程に、左様に相心得べく候」「有り難き仕合に存じ奉り候」「其の代りに、当御年貢を、一粒でも未進さする事が有るにおいては、急度曲事に申付くべし、左様に相心得べく候」「畏り奉り候、たとへ裸に相成り候ても上納仕るべく候」「然らば此の者共も、手前が申す儀得心にて満足致候。」
書き下し
評曰、此時木工殿の額色、二た目と見られぬ程おそろしき樣子にて、面を擧げたるもの一人もなかりしとなり。軈て面を和らげ「併し、斯くいふも亦皆理窟なり、殿樣御勝手御不如意なる事も存知の前、御用金を出し、先々納迄差上げる者も有る中に、未進をするといふは、能々貧にて、內證に一物なき故の事成るべし、お身達も定めて人並に御年貢上納仕度く思ふべけれども、不仕合にあふか、長病らひするか、又は不時の災難に逢ひ、耕作も存分に成らず、收納少き故の事成るべし、嘸難儀なるべし、甚だ不便千萬、氣の毒なる事なり、又役人もお身達が物なきといふ事を能く知りたる故、未進をも許容して置きたる物ならん、是は役人の仁政といふ物にて、有り難き事なり、されば唯今未進を差し上げよと申付けたればとて、元來なきものを差し上げる手段も有るまじ、仍て、未進を御取成さらぬは御上の御損とし、上納せぬ分をお身達の德として唯今迄の未進の分は、以後上納に及ばず、殘らずお身達に下さるゝ程に、左樣に相心得べく候」「有り難き仕合に存じ奉り候」「其の代りに、當御年貢を、一粒でも未進さする事が有るにおいては、急度曲事に申付くべし、左樣に相心得べく候」「畏り奉り候、たとへ裸に相成り候ても上納仕るべく候」「然らば此の者共も、手前が申す儀得心にて滿足致候。」
現代語訳
評して言う。このとき木工殿の顔つきは、二度と見られないほど恐ろしい様子で、顔を上げた者は一人もなかったという。やがて顔つきを和らげ、「しかし、こう言うのもまた理屈の上のことだ。殿様の勝手向きが不如意であることも承知のうえで、御用金を出し、先々納まで差し上げる者がいるなかで、未進をするというのは、よくよく貧しく、内証に何も持たぬためであろう。そなたたちも、きっと人並みに年貢を納めたいと思っていただろうが、不運にあったか、長患いをしたか、または不時の災難にあい、耕作も思うにまかせず、収納が少なかったためであろう。さぞ難儀なことだろう。まことに不憫で気の毒である。また役人も、そなたたちに物がないことをよく知っていたので、未進をも許してきたのだろう。これは役人の仁政というもので、ありがたいことだ。だから今、未進を差し上げよと申し付けたところで、もともとないものを差し出す手立てもあるまい。よって、未進を取り立てないのは御上の損とし、上納しない分はそなたたちの徳として、今までの未進の分は今後上納に及ばず、残らずそなたたちに下すから、そのように心得よ」。「ありがたき仕合せに存じます」。「その代わり、今年の年貢を一粒でも未進させることがあれば、きっと処罰するから、そのように心得よ」。「かしこまりました。たとえ裸になっても上納いたします」。「それならこの者たちも、私の言うことに納得して満足した」。
解説

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