碧巌録 / 第九十八則
禪家流 愛輕薄 滿肚參來用不著堪悲堪笑天平老却謂當初悔行脚錯錯西院清風頓銷鑠復云。忽有箇衲僧出云錯雪竇錯。何似天平錯。禪家流愛輕薄。滿肚參來用不著。這漢會則會。只是用不得。尋常目視雲霄道。他會得多少禪。及至向烘罏裏纔烹。元來一點使不著。五祖先師道。有一般人參禪。如琉璃瓶裏搗糍糕相似更動轉不得。抖擻不出。觸著便破。若要活潑潑地。但參皮殼漏子禪。直向高山上。撲將下來。亦不破亦不壞。古人道。設使言前薦得。猶是滯殼迷封。直饒句下精通。未免觸途狂見。
新字:禅家流 愛軽薄 満肚参来用不著堪悲堪笑天平老却謂当初悔行脚錯錯西院清風頓銷鑠復云。忽有箇衲僧出云錯雪竇錯。何似天平錯。禅家流愛軽薄。満肚参来用不著。這漢会則会。只是用不得。尋常目視雲霄道。他会得多少禅。及至向烘罏裏纔烹。元来一点使不著。五祖先師道。有一般人参禅。如琉璃瓶裏搗糍糕相似更動転不得。抖擻不出。触著便破。若要活溌溌地。但参皮殼漏子禅。直向高山上。撲将下来。亦不破亦不壊。古人道。設使言前薦得。猶是滞殼迷封。直饒句下精通。未免触途狂見。
書き下し
禅家の流、軽薄を愛す、満肚参じ来るも用ゐ著かず。悲しむに堪へ笑ふに堪へたり天平老、却つて謂ふ当初行脚を悔ゆと。錯、錯、西院の清風頓に銷鑠す。復た云く、「忽ち箇の衲僧有りて出でて『錯』と云はば、雪竇の錯は天平の錯に何似ぞ」。禅家の流、軽薄を愛し、満肚参じ来るも用ゐ著かずとは、這の漢会することは則ち会するも、只だ是れ用ゐ得ず。尋常目は雲霄を視て道ふ、他多少の禅を会得すと。烘罏裏に向いて纔かに烹るに及至びて、元来一点も使ひ著かず。五祖先師道ふ、「一般の人有りて禅に参ずること、琉璃瓶裏に糍糕を搗くが如くに相似て、更に動転し得ず、抖擻し出さず、触著すれば便ち破る。若し活潑潑地ならんと要せば、但だ皮殻漏子の禅に参ぜよ。直に高山の上に向いて撲ち将ち下し来るも、亦た破れず亦た壊れず」。古人道ふ、「設使ひ言前に薦得するも、猶ほ是れ殻に滞り封に迷ふ。直饒ひ句下に精通するも、未だ触途の狂見を免れず」。
現代語訳
頌に言う。「禅家の連中は軽薄を好む。腹いっぱい参じて来ても役に立たない。悲しむべく笑うべき天平じいさん、かえって昔の行脚を悔いたと言う。錯、錯、西院の清風はたちまち溶け消える」。さらに言った。「もし一人の衲僧が出てきて『錯』と言ったら、雪竇の錯は天平の錯と比べてどうか」。禅家の連中は軽薄を好み、腹いっぱい参じて来ても役に立たないとは、この男は分かっていることは分かっているが、ただ使うことができないということである。ふだんは目で空の彼方を見上げて、自分はどれほど禅を会得したかと言う。ところが炉の中でちょっと煮られると、もともと少しも使いものにならない。五祖先師は言った。「ある種の人が禅に参じるのは、瑠璃の瓶の中で餅を搗くようなもので、まったく身動きがとれず、振り払って出ることもできず、触れればすぐに割れてしまう。もし活き活きとしていたいなら、ただ皮袋のような禅に参ぜよ。高い山の上から投げ落としても、割れもせず壊れもしない」。古人は言った。「たとえ言葉の前に見て取っても、なお殻にとどまり封に迷っている。たとえ言葉の下に精通しても、行く先々で狂った見解を免れない」。
解説
この章句が説くこと
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