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碧巌録 / 第九十八則

堪悲堪笑天平老。却謂當初悔行脚。雪竇道。堪悲他對人說不出。堪笑他會一肚皮禪。更使些子不著。錯錯這兩錯。有者道。天平不會是錯。又有底道。無語底是錯。有什麼交涉。殊不知這兩錯。如擊石火。似閃電光。是他向上人行履處。如仗劍斬人直取人咽喉命根方斷。若向此劍刃上行得。便七縱八橫。若會得兩錯。便可以見西院清風頓銷鑠。雪竇上堂。舉此話了。意道錯。我且問爾。雪竇這。兩錯。何似天平錯。且參三十年。

新字:堪悲堪笑天平老。却謂当初悔行脚。雪竇道。堪悲他対人説不出。堪笑他会一肚皮禅。更使些子不著。錯錯這両錯。有者道。天平不会是錯。又有底道。無語底是錯。有什麼交渉。殊不知這両錯。如撃石火。似閃電光。是他向上人行履処。如仗剣斬人直取人咽喉命根方断。若向此剣刃上行得。便七縦八横。若会得両錯。便可以見西院清風頓銷鑠。雪竇上堂。舉此話了。意道錯。我且問爾。雪竇這。両錯。何似天平錯。且参三十年。

書き下し

悲しむに堪へ笑ふに堪へたり天平老、却つて謂ふ当初行脚を悔ゆと。雪竇道ふ、悲しむに堪へたるは他の人に対して説き出さざること、笑ふに堪へたるは他の一肚皮の禅を会して、更に些子も使ひ著かざることと。錯、錯、這の両錯、有る者は道ふ、「天平の会せざるが是れ錯なり」と。又有る底は道ふ、「無語底が是れ錯なり」と。什麼の交渉か有らん。殊に知らず、這の両錯は、石火を撃つが如く、閃電光に似て、是れ他の向上の人の行履の処なることを。剣に仗りて人を斬るに、直に人の咽喉を取りて命根方に断ずるが如し。若し此の剣刃上に向いて行き得ば、便ち七縦八横ならん。若し両錯を会得せば、便ち以て西院の清風頓に銷鑠することを見るべし。雪竇上堂して此の話を挙し了りて、意に錯と道ふ。我且く爾に問ふ、雪竇の這の両錯は、天平の錯に何似ぞ。且く参ずること三十年せよ。

現代語訳

「悲しむべく笑うべき天平じいさん、かえって昔の行脚を悔いたと言う」。雪竇が言うのは、悲しむべきは彼が人に向かって言い出せないこと、笑うべきは腹いっぱいの禅を会得していながら、少しも使えないことである。「錯、錯」、この二つの錯について、ある者は「天平が分からなかったことが錯だ」と言い、またある者は「言葉が出なかったことが錯だ」と言う。何の関わりがあろうか。この二つの錯が、火打ち石の火花のように、稲妻の閃きのようであり、向上の人の歩むところであることを、まるで分かっていない。剣を手に人を斬るのに、まっすぐ喉元を取って命の根をようやく断つようなものである。もしこの剣の刃の上を歩くことができれば、縦横無尽である。もし二つの錯を会得すれば、西院の清風がたちまち溶け消えるのを見ることができよう。雪竇は上堂してこの話を取り上げ終えると、心に「錯」と言った。わたしはひとまず君に問う。雪竇のこの二つの錯は、天平の錯と比べてどうか。まあ三十年参じてみよ。

解説

頌の後半に対する圜悟の評唱である。雪竇が天平を悲しむべく笑うべしと言うのは、腹いっぱいの禅を持ちながら人に向かって言い出せず、少しも使えないからだと圜悟は解く。二つの錯を、天平が分からなかったことや言葉に詰まったことと解する説を、圜悟は無関係と退ける。錯は石火や電光のように一瞬で喉元を断つ剣であり、その刃の上を歩ける者だけが縦横に自在となる。最後に雪竇の錯と天平の錯の違いを問い、三十年参ぜよと突き放して結ぶ。指摘の一言を理屈で分類して片づけず、その鋭さを身に受けとめることが、仕事での成長にもつながる。

この章句が説くこと

両錯石火電光雪竇公案分別自由

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