碧巌録 / 第九十五則
長慶保福在雪峯會下。常互相舉覺商量。一日平常如此說話云。寧說阿羅漢有三毒。不說如來有二種語。梵語阿羅漢。此云殺賊。以功能彰名。能斷九九八十一品煩惱。諸漏已盡。梵行已立。此是無學阿羅漢位。三毒即是貪嗔癡。根本煩惱。八十一品。尚自斷盡。何況三毒。長慶道。寧說阿羅漢有三毒。不說如來有二種語。大意要顯如來無不實語。法華經云。唯此一事實。餘二則非真。又云。唯有一乘法。無二亦無三。世尊三百餘會。觀機逗教。應病與藥。萬種千般說法。畢竟無二種語。他意到這裏。諸人作麼生見得。佛以一音演說法。則不無長慶要且未夢見如來語在。何故大似人說食終不能飽。保福見他平地上說教遂問。作麼生是如來語。慶云。聾人爭得聞。這漢知他幾時。在鬼窟裏作活計來也。保福云。情知爾向第二頭道。果中其言。却問師兄作麼生是如來語。福云。喫茶去。鎗頭倒被別人奪却了也。大小長慶。失錢遭罪。且問諸人。如來語還有幾箇。須知恁麼見得。方見這兩箇漢敗缺。子細檢點將來。盡合喫棒。放一線道與他理會。有底云。保福道得是。長慶道得不是。只管隨語生解。便道有得有失。
新字:長慶保福在雪峯会下。常互相舉覚商量。一日平常如此説話云。寧説阿羅漢有三毒。不説如来有二種語。梵語阿羅漢。此云殺賊。以功能彰名。能断九九八十一品煩悩。諸漏已尽。梵行已立。此是無学阿羅漢位。三毒即是貪嗔痴。根本煩悩。八十一品。尚自断尽。何況三毒。長慶道。寧説阿羅漢有三毒。不説如来有二種語。大意要顕如来無不実語。法華経云。唯此一事実。余二則非真。又云。唯有一乗法。無二亦無三。世尊三百余会。観機逗教。応病与薬。万種千般説法。畢竟無二種語。他意到這裏。諸人作麼生見得。仏以一音演説法。則不無長慶要且未夢見如来語在。何故大似人説食終不能飽。保福見他平地上説教遂問。作麼生是如来語。慶云。聾人争得聞。這漢知他幾時。在鬼窟裏作活計来也。保福云。情知爾向第二頭道。果中其言。却問師兄作麼生是如来語。福云。喫茶去。鎗頭倒被別人奪却了也。大小長慶。失銭遭罪。且問諸人。如来語還有幾箇。須知恁麼見得。方見這両箇漢敗欠。子細検点将来。尽合喫棒。放一線道与他理会。有底云。保福道得是。長慶道得不是。只管随語生解。便道有得有失。
書き下し
長慶・保福、雪峰の会下に在りて、常に互ひに挙覚商量す。一日平常に此の如く説話して云く、「寧ろ阿羅漢に三毒有りと説くも、如来に二種の語有りと説かず」。梵語の阿羅漢は、此に殺賊と云ふ。功能を以て名を彰す。能く九九八十一品の煩悩を断ず。諸漏已に尽き、梵行已に立つ。此は是れ無学阿羅漢の位なり。三毒は即ち是れ貪嗔癡、根本煩悩なり。八十一品すら尚自ほ断じ尽くす、何ぞ況や三毒をや。長慶道ふ、「寧ろ阿羅漢に三毒有りと説くも、如来に二種の語有りと説かず」と。大意は如来に不実の語無きことを顕さんと要す。法華経に云く、「唯だ此の一事のみ実なり、余の二は則ち真に非ず」。又云く、「唯だ一乗の法のみ有り、二無く亦た三無し」。世尊三百余会、機を観て教を逗し、病に応じて薬を与へ、万種千般に法を説くも、畢竟二種の語無し。他の意此に到る。諸人作麼生か見得せん。仏一音を以て法を演説すとは、則ち無きにあらず、長慶要且未だ如来の語を夢にも見ざる在り。何が故ぞ。大いに人の食を説けども終に飽くこと能はざるに似たり。保福他の平地上に教を説くを見て、遂に問ふ、「作麼生か是れ如来の語」。慶云く、「聾人争でか聞くことを得ん」。這の漢知んぬ他幾時か鬼窟裏に在りて活計を作し来ることを。保福云く、「情に知る、爾が第二頭に向いて道ふことを」。果して其の言に中る。却つて師兄に問ふ、「作麼生か是れ如来の語」。福云く、「喫茶去」。鎗頭倒に別人に奪却せられ了れり。大小の長慶、銭を失ひ罪に遭ふ。且く諸人に問ふ、如来の語還た幾箇か有る。須らく恁麼に見得して知るべし、方に這の両箇の漢の敗缺を見ん。子細に検点し将ち来れば、尽く棒を喫するに合す。一線道を放ちて他の理会するに与ふ。有る底は云ふ、「保福は道ひ得て是、長慶は道ひ得て不是」と。只管に語に随つて解を生じ、便ち得有り失有りと道ふ。
現代語訳
長慶と保福は雪峰の門下にいて、いつも互いに話題を挙げて論じ合っていた。ある日、ふだんのように話していて言った。「たとえ阿羅漢に三毒があると説くことはあっても、如来に二種類の言葉があるとは説かない」。梵語の阿羅漢は、中国語で「殺賊」という。そのはたらきによって名を表しているのである。九九八十一品の煩悩を断つことができ、もろもろの漏れはすでに尽き、清らかな行はすでに確立している。これが学ぶべきもののない阿羅漢の位である。三毒とは貪り・怒り・愚かさであり、根本の煩悩である。八十一品さえ断ち尽くしているのだから、まして三毒はなおさらである。長慶が「たとえ阿羅漢に三毒があると説くことはあっても、如来に二種類の言葉があるとは説かない」と言ったのは、如来には真実でない言葉がないことを明かそうとしたのである。『法華経』に言う。「ただこの一つの事だけが真実であり、ほかの二つは真ではない」。また言う。「ただ一乗の法だけがあって、二もなく三もない」。世尊は三百余回の説法で、相手の機根を見て教えを授け、病に応じて薬を与え、さまざまに法を説いたが、結局二種類の言葉はなかった。長慶の考えはここまで来ている。皆さんはどう見て取るか。「仏は一つの声で法を説く」ということは確かにあるが、長慶はまだ如来の言葉を夢にも見ていない。なぜか。まるで食べ物の話をしても腹が満ちないようなものだからである。保福は彼が平地の上で教えを説いているのを見て、そこで「如来の言葉とはどういうものか」と問うた。長慶は「耳の聞こえない者にどうして聞けようか」と言った。この男はいったいいつから鬼の洞窟の中で暮らしを立ててきたのか。保福は「やはり君は第二義のところで言っているな」と言った。果たしてその言葉どおりであった。長慶は逆に兄弟子に「では如来の言葉とはどういうものか」と問うた。保福は「お茶でも飲んでいけ」と言った。槍の穂先を逆に他人に奪われてしまったのである。さしもの長慶も、銭を失ったうえに罪までかぶった。さて皆さんに問おう。如来の言葉はいくつあるのか。このように見て取ってこそ、この二人の破綻が見えると知るべきである。細かく点検してみれば、二人ともみな棒を食らうべきである。一筋の道を開けて、理解する余地を与えておこう。ある者は「保福の言ったことは正しく、長慶の言ったことは正しくない」と言う。ひたすら言葉について解釈を生み、得があり失があると言うのである。
解説
この章句が説くこと
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