碧巌録 / 第九十五則
殊不知。古人如擊石火。似閃電光。如今人不去他古人轉處看。只管去句下走。便道長慶當時不便用。所以落第二頭。保福云。喫茶去。便是第一頭。若只恁麼看。到彌勒下生。也不見古人意。若是作家。終不作這般見解。跳出這窠窟。向上自有一條路。爾若道聾人爭得聞有什麼不是處。保福云喫茶去。有什麼是處。轉沒交涉。是故道。他參活句。不參死句。這因緣與遍身是通身是因緣一般。無爾計較是非處。須是爾脚跟下。淨裸裸地。方見古人相見處。五祖老師云。如馬前相撲相似。須是眼辨手親。這箇公案。若以正眼觀之。俱無得失處。辨箇得失。無親疎處。分箇親疎。長慶也須禮拜保福始得。何故這箇些子。巧處用得好。如電轉星飛相似。保福不妨牙上生牙。爪上生爪。頌云。
新字:殊不知。古人如撃石火。似閃電光。如今人不去他古人転処看。只管去句下走。便道長慶当時不便用。所以落第二頭。保福云。喫茶去。便是第一頭。若只恁麼看。到弥勒下生。也不見古人意。若是作家。終不作這般見解。跳出這窠窟。向上自有一条路。爾若道聾人争得聞有什麼不是処。保福云喫茶去。有什麼是処。転没交渉。是故道。他参活句。不参死句。這因縁与遍身是通身是因縁一般。無爾計較是非処。須是爾脚跟下。浄裸裸地。方見古人相見処。五祖老師云。如馬前相撲相似。須是眼弁手親。這箇公案。若以正眼観之。倶無得失処。弁箇得失。無親疎処。分箇親疎。長慶也須礼拝保福始得。何故這箇些子。巧処用得好。如電転星飛相似。保福不妨牙上生牙。爪上生爪。頌云。
書き下し
殊に知らず、古人は石火を撃つが如く、閃電光に似たることを。如今の人は他の古人の転処に去いて看ず、只管に句下に去いて走り、便ち道ふ、長慶当時便ち用ゐず、所以に第二頭に落つ、保福云く、喫茶去、便ち是れ第一頭、と。若し只だ恁麼に看ば、弥勒下生に到るも、也た古人の意を見ず。若し是れ作家ならば、終に這般の見解を作さず。這の窠窟を跳出せば、向上に自ら一条の路有り。爾若し道はば、聾人争でか聞くことを得んに、什麼の不是の処か有る、保福喫茶去と云ふに、什麼の是の処か有る、と。転た交渉没し。是の故に道ふ、他は活句に参じて死句に参ぜず、と。這の因縁は遍身是・通身是の因縁と一般なり。爾が是非を計較する処無し。須らく是れ爾が脚跟下、浄裸裸地にして、方に古人の相見の処を見るべし。五祖老師云く、「馬前の相撲の如くに相似たり。須らく是れ眼辨じ手親しかるべし」。這箇の公案、若し正眼を以て之を観れば、俱に得失の処無し。箇の得失を辨じ、親疎の処無きに、箇の親疎を分つ。長慶も也た須らく保福を礼拝して始めて得べし。何が故ぞ。這箇些子、巧処用ゐ得て好し、電転星飛の如くに相似たり。保福妨げず、牙上に牙を生じ、爪上に爪を生ずることを。頌に云く、
現代語訳
まるで分かっていない。古人のはたらきは火打ち石の火花のよう、稲妻の光のようなものだということを。今の人は古人の転じたところを見ようとせず、ひたすら言葉の下を走り回って、「長慶はその時すぐにはたらかなかったから第二義に落ちた。保福が『お茶でも飲んでいけ』と言ったのが第一義だ」と言う。もしそのように見るだけなら、弥勒が下生する時まで待っても古人の意は見えない。作家であれば、決してそのような見解はしない。この巣穴から跳び出せば、向上にはおのずから一本の道がある。君がもし「『耳の聞こえない者にどうして聞けようか』のどこがいけないのか。保福の『お茶でも飲んでいけ』のどこがよいのか」と言うなら、ますます見当違いである。だから「彼は活句に参じて死句に参じない」と言うのである。この因縁は「遍身是れ」「通身是れ」の因縁と同じであり、君が是非をあれこれ計る余地はない。君の足もとがまる裸で何もない状態であってこそ、古人が互いに相見えたところが見える。五祖老師は言った。「馬の前で相撲を取るようなものだ。眼が利き、手さばきが確かでなければならない」。この公案を正しい眼で見れば、どちらにも得失はない。それなのに得失を論じ、親疎はないのに親疎を分けている。長慶もまた保福を礼拝してこそよいのである。なぜか。このわずかなところで巧みにはたらき、稲妻がひらめき星が飛ぶようであったからである。保福は見事に、牙の上にさらに牙を生やし、爪の上にさらに爪を生やした。頌に言う。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第九十五則挙す。長慶有る時云く、「寧ろ阿羅漢に三毒有りと説くも、如来に二種の語有りと説かず。如来に語無しと道はず、只だ是れ二種の語無し」。保福云く、「作麼生か是れ如来の語」。慶云く、「聾人争でか聞くことを得ん」。保福云く、「情に知る、爾が第二頭に向いて道ふことを」。慶云く、「作麼生か是れ如来の語」。保福云く、「喫茶去」。
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『碧巌録』第九十五則頭や第一第二、臥龍止水を鑒みず。無き処には月有りて波澄み、有る処には風無くして浪起る。稜禅客、稜禅客、三月禹門に点額に遭ふ。頭や第一第二。人只管に第一第二を理会す。正に是れ死水裏に活計を作す。這箇の機巧、爾只だ第一第二の会を作さば、且く摸索不著なる在り。雪竇云く、臥龍止水を鑒みず、と。死水裏豈に龍の蔵るる有らんや。若し是れ第一第二ならば、正に是れ止水裏に活計を作す。須らく是れ洪波浩渺、白浪滔天の処にして、方に龍の蔵るる有り。正に前頭に云ふ、澄潭蒼龍の蟠ることを許さず、に似たり。見ずや道ふ、死水龍を蔵さず、と。又道ふ、臥龍長に碧潭の清きを怖る、と。所以に道ふ、龍無き処には月有りて波澄み、風恬かに浪静かなり、龍有る処には風無くして浪を起す、と。大いに保福の喫茶去と道ふに似たり、正に是れ風無くして浪を起す。雪竇這裏に到りて、一時に爾が与に情解を打畳して頌し了れり。他余韻有りて、文理を成さしむ。依前として裏頭に就いて一隻眼を著く。也た妨げず奇特なることを。却つて道ふ、稜禅客、稜禅客、三月禹門に点額に遭ふ、と。長慶は是れ龍門を透る底の龍なりと雖も、却つて保福に驀頭に一点せらる。
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『碧巌録』第八則如今の人問著すれば、便ち言句下に向つて咬嚼し、眉毛上に活計を作す。看よ他の屋裏の人、自然に他の行履の処を知る。千変万化、節角聱訛、著著出身の路有り、便ち能く此の如く他と酬唱す。此の語若し奇特無くんば、雲門・保福・長慶の三人、咂咂地に他と酬唱して什麼をか作さん。保福云く、「賊と作る人心虚なり」。只だ此の語に因つて、適来の許多の情解を説くことを惹き得たり。且く道へ、保福の意作麼生。切に忌む句下に向つて他の古人を覓むることを。爾若し情を生じ念を起さば、則ち爾が眼睛を換へん。殊に知らず、保福一転語を下して、翠巌の脚跟を截断することを。長慶云く、「生ぜり」。人多く道ふ、「長慶翠巌の脚跟に随つて転ず、所以に生ぜりと道ふ」と。且得没交渉。知らず、長慶自ら他の見解を出して生ぜりと道ふことを。各おの出身の処有り。我且く爾に問ふ、是れ什麼の処か是れ生ずる処。一に作家の面前に、金剛王宝剣を直下に便ち用ふるに似たり。若し能く常流の見解を打破し、得失是非を截断せば、方に長慶の他と酬唱する処を見ん。雲門云く、「関」。妨げず奇特なることを。只だ是れ参じ難し。雲門大師、多く一字禅を以て人に示す。一字の中と雖も、須らく三句を具すべし。看よ他の古人、機に臨んで酬唱す、自然に今時の人と逈かに別なり。此れは乃ち句を下す底の様子なり。他此の如く道ふと雖も、意決して那裏に在らず。既に那裏に在らずんば、且く道へ、什麼の処にか在る。也た須らく子細に自ら参じて始めて得べし。若し是れ明眼の人ならば、照天照地底の手脚有つて、直下に八面玲瓏たらん。雪竇他の一箇の関字の為に、他の三箇を和して、穿つて一串と作して頌出す。
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『碧巌録』第七十六則保福・長慶、同じく雪峰の会下に在つて、常に古人の公案を挙して商量す。長慶、保福に問ふ、「飯を将て人に与へて喫せしむるは、恩に報ゆる分有り。什麼の為にか眼を具せざる」。必ずしも尽く公案中の事を問はず、大綱此の語を借つて話頭と作し、他の諦当の処を験せんと要す。保福云く、「施す者も受くる者も、二り倶に瞎漢」。快なる哉、這裏に到つて、只だ当機の事を論ず。家裏に出身の路有り。長慶云く、「其の機を尽くし来たるも、還た瞎と成るや否や」。保福云く、「我を瞎と道ひ得んや」。保福の意に謂ふ、「我れ恁麼に眼を具して、爾が与に道ひ了れり、還た我を瞎と道ひ得んや」と。是の如くなりと雖然も、半ば合し半ば開く。当時若し是れ山僧ならば、他の「其の機を尽くし来たるも、還た瞎と成るや否や」と道ふを等つて、只だ他に向かつて「瞎」と道はん。可惜許。保福当時、若し這箇の瞎の字を下し得ば、雪竇の許多の葛藤を免れ得ん。雪竇も亦た只だ此の意を用ゐて頌す。
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『碧巌録』第九十五則長慶・保福、雪峰の会下に在りて、常に互ひに挙覚商量す。一日平常に此の如く説話して云く、「寧ろ阿羅漢に三毒有りと説くも、如来に二種の語有りと説かず」。梵語の阿羅漢は、此に殺賊と云ふ。功能を以て名を彰す。能く九九八十一品の煩悩を断ず。諸漏已に尽き、梵行已に立つ。此は是れ無学阿羅漢の位なり。三毒は即ち是れ貪嗔癡、根本煩悩なり。八十一品すら尚自ほ断じ尽くす、何ぞ況や三毒をや。長慶道ふ、「寧ろ阿羅漢に三毒有りと説くも、如来に二種の語有りと説かず」と。大意は如来に不実の語無きことを顕さんと要す。法華経に云く、「唯だ此の一事のみ実なり、余の二は則ち真に非ず」。又云く、「唯だ一乗の法のみ有り、二無く亦た三無し」。世尊三百余会、機を観て教を逗し、病に応じて薬を与へ、万種千般に法を説くも、畢竟二種の語無し。他の意此に到る。諸人作麼生か見得せん。仏一音を以て法を演説すとは、則ち無きにあらず、長慶要且未だ如来の語を夢にも見ざる在り。何が故ぞ。大いに人の食を説けども終に飽くこと能はざるに似たり。保福他の平地上に教を説くを見て、遂に問ふ、「作麼生か是れ如来の語」。慶云く、「聾人争でか聞くことを得ん」。這の漢知んぬ他幾時か鬼窟裏に在りて活計を作し来ることを。保福云く、「情に知る、爾が第二頭に向いて道ふことを」。果して其の言に中る。却つて師兄に問ふ、「作麼生か是れ如来の語」。福云く、「喫茶去」。鎗頭倒に別人に奪却せられ了れり。大小の長慶、銭を失ひ罪に遭ふ。且く諸人に問ふ、如来の語還た幾箇か有る。須らく恁麼に見得して知るべし、方に這の両箇の漢の敗缺を見ん。子細に検点し将ち来れば、尽く棒を喫するに合す。一線道を放ちて他の理会するに与ふ。有る底は云ふ、「保福は道ひ得て是、長慶は道ひ得て不是」と。只管に語に随つて解を生じ、便ち得有り失有りと道ふ。
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『碧巌録』第九十一則保福云く、「和尚年尊し、別に人を請ずるが好し」。此の語道ひ得て穏当なり。前の三則の語は却つて見易し。此の一句の語は遠意有り。雪竇も亦た打す。破れたり。山僧旧日慶蔵主の処に在りて理会して道ふ、「和尚年尊く老耄して、頭を得て尾を忘る。適来は扇子を索め、如今は犀牛児を索む。執侍し難し。故に云く、別に人を請ずるが好し」と。雪竇云く、「惜しむべし、労して功無し」。此れ皆是れ下語の格式なり。古人此の事を見徹して、各各同じからずと雖も、道ひ得て出で来れば百発百中す。須らく出身の路有り、句句血脈を失はざるべし。如今の人は問著すれば、只管に道理計較を作す。所以に十二時中、人の咬嚼して滴水滴凍ならしめ、箇の証悟の処を求めんことを要す。看よ他の雪竇、一串に頌して云く、摐。犀牛の扇子用ふること多時、
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