碧巌録 / 第九十四則
舉。楞嚴經云。吾不見時。何不見吾不見之處若見不見。自然非彼不見之相若不見吾不見之地自然非物云何非汝。
新字:舉。楞厳経云。吾不見時。何不見吾不見之処若見不見。自然非彼不見之相若不見吾不見之地自然非物云何非汝。
書き下し
挙す。楞厳経に云く、「吾不見の時、何ぞ吾が不見の処を見ざる。若し不見を見ば、自然に彼の不見の相に非ず。若し吾が不見の地を見ずんば、自然に物に非ず、云何ぞ汝に非ざらん」。
現代語訳
『楞厳経』に言う。「わたしが見ていない時、なぜわたしの見ていないところを見ないのか。もし見ていないところを見るなら、それはおのずとあの見ていない姿ではない。もしわたしの見ていない所を見ないなら、見ることはおのずと物ではない。どうしてそれがあなた自身でないことがあろうか」。
解説
本則は、雪竇が『楞厳経』の一節を公案として掲げたものである。見るはたらきが物であるなら仏の見ることも他人に見えるはずだという考えに対し、仏は、自分が見ていない時のその「見ていない処」を他人は見ることができないと返す。見ることは対象として取り出せる物ではなく、だからこそそれは他でもないあなた自身だというのが経の結論である。見る者を見ようとして見えないところに、かえって主体が現れるという逆説が、この公案の眼目である。他人の評価や数字で自分を測ろうとするとき、測っている当の自分は数字の外にいることを思い出させる。
この章句が説くこと
楞厳経不見見性主体自己公案
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