碧巌録 / 第九十四則
楞嚴經云。吾不見時。何不見吾不見之處。若見不見。自然非彼不見之相。若不見吾不見之地。自然非物。云何非汝。雪竇到此。引經文不盡。全引則可見。經云。若見是物。則汝亦可見吾之見。若同見者。名為見吾。吾不見時。何不見吾不見之處。若見不見。自然非彼不見之相。若不見吾不見之地。自然非物。云何非汝。辭多不錄。阿難意道。世界燈籠露柱。皆可有名。亦要世尊指出此妙精元明。喚作什麼物。教我見佛意。世尊云。我見香臺。阿難云。我亦見香臺。即是佛見。世尊云。我見香臺則可知。我若不見香臺時。爾作麼生見。阿難云。我不見香臺時。即是見佛。佛云。我云不見。自是我知。汝云不見。自是汝知。他人不見處。爾如何得知。古人云。到這裏。只可自知。與人說不得。只如世尊道。吾不見時。何不見吾不見之處。若見不見。自然非彼不見之相。若不見吾不見之地。自然非物。云何非汝。若道認見為有物。未能拂迹。吾不見時。如羚羊掛角。聲響蹤跡。氣息都絕。爾向什麼處摸索。經意初縱破。後奪破。雪竇出教眼頌。亦不頌物。亦不頌見與不見。直只頌見佛也。
新字:楞厳経云。吾不見時。何不見吾不見之処。若見不見。自然非彼不見之相。若不見吾不見之地。自然非物。云何非汝。雪竇到此。引経文不尽。全引則可見。経云。若見是物。則汝亦可見吾之見。若同見者。名為見吾。吾不見時。何不見吾不見之処。若見不見。自然非彼不見之相。若不見吾不見之地。自然非物。云何非汝。辞多不録。阿難意道。世界灯籠露柱。皆可有名。亦要世尊指出此妙精元明。喚作什麼物。教我見仏意。世尊云。我見香台。阿難云。我亦見香台。即是仏見。世尊云。我見香台則可知。我若不見香台時。爾作麼生見。阿難云。我不見香台時。即是見仏。仏云。我云不見。自是我知。汝云不見。自是汝知。他人不見処。爾如何得知。古人云。到這裏。只可自知。与人説不得。只如世尊道。吾不見時。何不見吾不見之処。若見不見。自然非彼不見之相。若不見吾不見之地。自然非物。云何非汝。若道認見為有物。未能払迹。吾不見時。如羚羊掛角。声響蹤跡。気息都絶。爾向什麼処摸索。経意初縦破。後奪破。雪竇出教眼頌。亦不頌物。亦不頌見与不見。直只頌見仏也。
書き下し
楞厳経に云く、「吾不見の時、何ぞ吾が不見の処を見ざる。若し不見を見ば、自然に彼の不見の相に非ず。若し吾が不見の地を見ずんば、自然に物に非ず、云何ぞ汝に非ざらん」。雪竇此に到りて、経文を引くこと尽くさず。全く引かば則ち見つべし。経に云く、「若し見是れ物ならば、則ち汝も亦た吾の見を見るべし。若し同じく見るを、名づけて吾を見ると為さば、吾不見の時、何ぞ吾が不見の処を見ざる。若し不見を見ば、自然に彼の不見の相に非ず。若し吾が不見の地を見ずんば、自然に物に非ず、云何ぞ汝に非ざらん」。辞多ければ録せず。阿難の意に道ふ、世界の燈籠露柱、皆名有るべし、亦た世尊に此の妙精元明を指出して、喚んで什麼の物と作し、我をして仏意を見しめんことを要す、と。世尊云く、「我香台を見る」。阿難云く、「我も亦た香台を見る。即ち是れ仏の見なり」。世尊云く、「我香台を見ることは則ち知るべし。我若し香台を見ざる時、爾作麼生か見る」。阿難云く、「我香台を見ざる時、即ち是れ仏を見る」。仏云く、「我不見と云ふは、自ら是れ我知る。汝不見と云ふは、自ら是れ汝知る。他人の不見の処、爾如何が知ることを得ん」。古人云く、「這裏に到りては、只だ自ら知るべし、人の与に説くことを得ず」。只だ世尊の道ふが如き、「吾不見の時、何ぞ吾が不見の処を見ざる。若し不見を見ば、自然に彼の不見の相に非ず。若し吾が不見の地を見ずんば、自然に物に非ず、云何ぞ汝に非ざらん」。若し見を認めて物有りと為さば、未だ迹を払ふこと能はず。吾不見の時は、羚羊の角を掛くるが如く、声響蹤跡、気息都て絶す。爾什麼の処に向いてか摸索せん。経の意は初め縦破し、後に奪破す。雪竇教眼を出して頌す。亦た物を頌せず、亦た見と不見とを頌せず、直に只だ仏を見ることを頌するなり。
現代語訳
『楞厳経』に言う。「わたしが見ていない時、なぜわたしの見ていないところを見ないのか。もし見ていないところを見るなら、それはおのずとあの見ていない姿ではない。もしわたしの見ていない所を見ないなら、見ることはおのずと物ではない。どうしてそれがあなた自身でないことがあろうか」。雪竇はここで、経文をすべては引いていない。全部引けば分かるはずである。経に言う。「もし見ることが物であるなら、あなたもわたしの見ることを見ることができるはずだ。もし同じく見ることを、わたしを見ることだと呼ぶなら、わたしが見ていない時、なぜわたしの見ていないところを見ないのか。もし見ていないところを見るなら、それはおのずとあの見ていない姿ではない。もしわたしの見ていない所を見ないなら、見ることはおのずと物ではない。どうしてそれがあなた自身でないことがあろうか」。言葉が多いので記録しない。阿難の考えはこうである。世界の燈籠や柱にはみな名があるはずだ、世尊にもこの妙なる精明の本体を指し示して、それを何という物と呼ぶのかを言ってもらい、自分に仏の見ることを見せてほしい、と。世尊は「わたしは香炉台を見ている」と言った。阿難は「わたしも香炉台を見ています。それがすなわち仏の見ることです」と言った。世尊は「わたしが香炉台を見ていることは分かるだろう。だが、わたしが香炉台を見ていない時、君はどうやってそれを見るのか」と言った。阿難は「わたしが香炉台を見ていない時が、すなわち仏を見ることです」と言った。仏は言った。「わたしが見ていないと言うのは、わたし自身が知っていることだ。君が見ていないと言うのは、君自身が知っていることだ。他人の見ていないところを、君はどうして知ることができようか」。古人は言った。「ここに至っては、ただ自分で知るほかなく、人に説くことはできない」。世尊が「わたしが見ていない時、なぜわたしの見ていないところを見ないのか。もし見ていないところを見るなら、それはおのずとあの見ていない姿ではない。もしわたしの見ていない所を見ないなら、見ることはおのずと物ではない。どうしてそれがあなた自身でないことがあろうか」と言ったとおりである。もし見ることを認めて物があるとするなら、まだ跡を払い去ることができていない。わたしが見ていない時は、羚羊が角を木の枝に掛けて眠るように、声も響きも足跡も気配もすっかり絶えている。君はどこを手探りしようというのか。経の意図は、はじめは相手の言い分を許しながら破り、後には奪い取って破るのである。雪竇は教えを見る眼を出して頌した。物を頌するのでもなく、見ると見ないとを頌するのでもなく、ただまっすぐに仏を見ることを頌したのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第九十四則挙す。楞厳経に云く、「吾不見の時、何ぞ吾が不見の処を見ざる。若し不見を見ば、自然に彼の不見の相に非ず。若し吾が不見の地を見ずんば、自然に物に非ず、云何ぞ汝に非ざらん」。
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『碧巌録』第九十七則胡漢来らず、全く伎倆無し。雪竇鼻孔を裂転す。也た胡漢来る有らば、則ち爾をして現ぜしむ。若し忽ち胡漢俱に来らざる時、又且つ如何。這裏に到りては、仏眼も也た覷れども見えず。且く道へ、是れ功勲か是れ罪業か、是れ胡か是れ漢か。直に羚羊の角を掛くるに似て、声響蹤跡は道ふこと莫れ、気息も也た無し。什麼の処に向いてか摸索せん。諸天をして花を捧ぐるに路無く、魔外をして潜かに覷ふに門無からしむるに至る。是の故に洞山和尚、一生院に住するに、土地神他の蹤跡を覓むれども見えず。一日厨前に米麺を抛撒す。洞山心を起して曰く、「常住の物色、何ぞ作践すること此の如くなるを得ん」。土地神遂に一見することを得て便ち礼拝す。雪竇道ふ、「伎倆既に無し」と。若し此の伎倆無き処に到らば、波旬も也た途を失せしむ。世尊は一切衆生を以て赤子と為す。若し一人有りて発心修行すれば、波旬の宮殿、之が為に振裂す。他便ち来りて修行者を悩乱す。雪竇道ふ、直饒ひ波旬恁麼に来るも、也た須らく途路を失却して近傍する処無からしむべしと。雪竇更に自ら胸を点じて云く、「瞿曇瞿曇、我を識るや也た無や」。是れ波旬と道ふこと莫れ、任是ひ仏来るも、還た我を識るや也た無や。釈迦老子すら尚自ほ見ず、諸人什麼の処に向いてか摸索せん。復た云く、「勘破し了れり」。且く道へ、是れ雪竇瞿曇を勘破するか、瞿曇雪竇を勘破するか。具眼の者試みに定当し看よ。
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『碧巌録』第九十四則全象全牛、瞖に殊ならず、従来の作者共に名模す。如今黄頭老を見んと要せば、刹刹塵塵半途に在り。全象全牛、瞖に殊ならず。衆盲象を摸して、各異端を説く、涅槃経に出づ。僧仰山に問ふ、「和尚人の禅を問ひ道を問ふを見て、便ち一円相を作し、中に於て牛の字を書す。意何くにか在る」。仰山云く、「這箇も也た是れ閑事なり。忽若し会得せば、外より来らず。忽若し会せずんば、決定して識らず。我且く爾に問ふ、諸方の老宿、爾が身上に於て、那箇か是れ爾が仏性と指出す。為復語る底が是か、黙する底が是か、是れ語らず黙せざる底が是なること莫しや。為復総て是か、為復総て不是か。爾若し語る底を是と認めば、盲人の象の尾を摸著するが如し。若し黙する底を是と認めば、盲人の象の耳を摸著するが如し。若し語らず黙せざる底を是と認めば、盲人の象の鼻を摸著するが如し。若し物物都て是と道はば、盲人の象の四足を摸著するが如し。若し総て不是と道はば、本象を抛つて空見に落在す。是の如きの衆盲の所見は、只だ象の上に於て名邈差別す。爾好からんと要せば、切に象を摸すること莫れ。見覚是と道ふこと莫れ、亦た不是と道ふこと莫れ」。祖師云く、「菩提本樹無し、明鏡も亦た台無し。本来無一物、争でか塵埃に染まん」。又云く、「道は本形相無し、智慧即ち是れ道なり。此の見解を作す者、是れを真般若と名づく」。明眼の人は象を見て其の全体を得。仏の性を見るも亦た然るが如し。
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『碧巌録』第八十四則雪竇も亦た良久と説かず、亦た黙然拠坐と説かず、只だ急急の処に去いて云く、「維摩、什麼をか道ふ」と。只だ雪竇の恁麼に道ふが如きは、還た維摩を見るや。夢にも也た未だ夢見ざること在り。維摩は乃ち過去の古仏なり。亦た眷属有りて、仏を助けて宣化す。不可思議の辯才を具し、不可思議の境界有り、不可思議の神通妙用有り。方丈の室中に於て、三万二千の獅子宝座と八万の大衆とを容れて、亦た寛狭ならず。且く道へ、是れ什麼の道理ぞ。喚んで神通妙用と作して得てんや。且く錯つて会すること莫れ。若し是れ不二法門ならば、同じく得、同じく証すと雖も、方に乃ち相共に証知す。独り文殊のみ有りて、与に酬対す可し。然も恁麼なりと雖も、還た雪竇の検責を免れ得るや也た無しや。雪竇恁麼に道ふも、也た這の二人と相見せんことを要して云く、「維摩、什麼をか道ふ」と。又た云く、「勘破し了れり」と。爾且く道へ、是れ什麼の処か、是れ勘破の処なる。只だ這些子、得失に拘はらず、是非に落ちず。万仞の懸崖の如し、向上に性命を捨得して、跳び得て過ぎ去らば、爾に親しく維摩を見ることを許さん。如し捨て得ずんば、大いに群羊の藩に触るるに似たり。雪竇は故然として是れ性命を捨得する底の人なり。所以に頌出して云く、
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『碧巌録』第六十二則看よ看よ、古岸何人か釣竿を把る。雲は冉冉、水は漫漫、明月蘆花君自ら看よ。若し雲門の語を識得せば、便ち雪竇の人の為にする処を見ん。他は雲門の示衆の後面の両句に向かつて、便ち爾が与に箇の注脚を下して云く、「看よ看よ」と。爾便ち瞠眉瞠眼の会を作さば、且く没交渉なることを得たり。古人道ふ、「霊光独り耀き、逈かに根塵を脱す。体真常を露はし、文字に拘はらず。心性は染無く、本自ら円成す。但だ妄縁を離るれば、即ち如如仏なり」と。若し只だ瞠眉努眼の処に向かつて坐殺せば、豈に能く根塵を脱得せんや。雪竇道ふ、「看よ看よ」と。雲門は古岸に在りて釣竿を把るが如く相似たり。雲は又冉冉、水は又漫漫、明月蘆花に映じ、蘆花明月に映ず。正当恁麼の時、且く道へ是れ何の境界ぞ。若し便ち直下に見得せば、前後只だ是れ一句に相似たり。瞠。
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『碧巌録』第二則見ずや、僧香厳に問ふ、「如何なるか是れ道」。厳云く、「枯木裏の龍吟」。僧云く、「如何なるか是れ道中の人」。厳云く、「髑髏裏の眼睛」。僧後に石霜に問ふ、「如何なるか是れ枯木裏の龍吟」。霜云く、「猶ほ喜を帯ぶること在り」。「如何なるか是れ髑髏裏の眼睛」。霜云く、「猶ほ識を帯ぶること在り」。僧又曹山に問ふ、「如何なるか是れ枯木裏の龍吟」。山云く、「血脈断えず」。「如何なるか是れ髑髏裏の眼睛」。山云く、「乾き尽きず」。「什麼人か聞くことを得る」。山云く、「尽大地未だ一箇も聞かざるもの有らず」。僧云く、「未審、龍吟は是れ何の章句ぞ」。山云く、「是れ何の章句なるかを知らず。聞く者は皆喪す」。復た頌有りて云く、「枯木龍吟真に道を見る、髑髏識無くして眼初めて明かなり。喜識尽くる時消息尽く、当人那ぞ濁中の清を弁ぜん」。雪竇謂つべし大いに手脚有りと、一時に爾が与に交加して頌出す。然も是の如くなりと雖も、都て両般無し。雪竇末後人の為にする処有り、更に道ふ、「難難」。只だ這の難難も、也た須らく透過して始めて得べし。何が故ぞ。百丈道ふ、「一切の語言、山河大地、一一転じて自己に帰す」。雪竇凡そ是れ一拈一掇、末後に到つては須らく自己に帰すべし。且く道へ、什麼の処か是れ雪竇人の為にする処。「揀択明白、君自ら看よ」。既に是れ葛藤を打して頌し了る、因何ぞ却つて道ふ、「君自ら看よ」。好彩、爾をして自ら看しむ。且く道へ、意什麼の処にか落在す。道ふこと莫れ、諸人理会し得ずと。設使ひ山僧這裏に到るも、也た只だ是れ理会し得ず。
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