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碧巌録 / 第九十二則

會中若有仙陀客 何必文殊下一槌。列聖叢中作者知。靈山八萬大眾。皆是列聖。文殊普賢。乃至彌勒。主伴同會。須是巧中之巧。奇中之奇。方知他落處。雪竇意謂。列聖叢中。無一箇人知有。若有箇作家者。方知不恁麼。何故文殊白槌云。諦觀法王法。法王法如是。雪竇道。法王法令不如斯。何故如此。當時會中。若有箇漢。頂門具眼。肘後有符。向世尊未陞座已前。覻得破。更何必文殊白槌。涅槃經云。仙陀婆一名四實。一者鹽。二者水。三者器。四者馬。有一智臣。善會四義。王若欲灑洗。要仙陀婆。臣即奉水。食索奉鹽。食訖奉器飲漿。欲出奉馬。隨意應用無差。灼然須是箇伶俐漢始得。只如僧問香嚴。如何是王索仙陀婆。嚴云。過這邊來。僧過嚴云。鈍置殺人。又問趙州。如何是王索仙陀婆。州下禪床。曲躬叉手。當時若有箇仙陀婆。向世尊未陞座已前透去。猶較些子。世尊更陞座。便下去。已是不著便了也。那堪文殊更白槌。不妨鈍置他世尊一上提唱。且作麼生是鈍置處。

新字:会中若有仙陀客 何必文殊下一槌。列聖叢中作者知。霊山八万大衆。皆是列聖。文殊普賢。乃至弥勒。主伴同会。須是巧中之巧。奇中之奇。方知他落処。雪竇意謂。列聖叢中。無一箇人知有。若有箇作家者。方知不恁麼。何故文殊白槌云。諦観法王法。法王法如是。雪竇道。法王法令不如斯。何故如此。当時会中。若有箇漢。頂門具眼。肘後有符。向世尊未陞座已前。覻得破。更何必文殊白槌。涅槃経云。仙陀婆一名四実。一者塩。二者水。三者器。四者馬。有一智臣。善会四義。王若欲灑洗。要仙陀婆。臣即奉水。食索奉塩。食訖奉器飲漿。欲出奉馬。随意応用無差。灼然須是箇伶俐漢始得。只如僧問香厳。如何是王索仙陀婆。厳云。過這辺来。僧過厳云。鈍置殺人。又問趙州。如何是王索仙陀婆。州下禅床。曲躬叉手。当時若有箇仙陀婆。向世尊未陞座已前透去。猶較些子。世尊更陞座。便下去。已是不著便了也。那堪文殊更白槌。不妨鈍置他世尊一上提唱。且作麼生是鈍置処。

書き下し

会中に若し仙陀客有らば、何ぞ必ずしも文殊一槌を下さん。列聖叢中の作者は知る。霊山八万の大衆は皆是れ列聖なり。文殊・普賢、乃至弥勒、主伴同会す。須らく是れ巧中の巧、奇中の奇にして、方に他の落処を知るべし。雪竇の意に謂ふ、列聖叢中、一箇の人の知有する無し、若し箇の作家なる者有らば、方に恁麼ならざることを知らん、と。何が故ぞ。文殊白槌して云く、「諦かに法王の法を観ずるに、法王の法は是の如し」。雪竇道ふ、「法王の法令は斯の如くならず」と。何が故ぞ此の如くなる。当時会中に、若し箇の漢の頂門に眼を具し、肘後に符有りて、世尊未だ陞座せざる已前に向いて覷破し得ば、更に何ぞ必ずしも文殊白槌せん。涅槃経に云く、「仙陀婆は一名四実なり。一には塩、二には水、三には器、四には馬」。一智臣有り、善く四義を会す。王若し灑洗せんと欲して仙陀婆を要むれば、臣即ち水を奉ず。食に索むれば塩を奉じ、食訖れば器を奉じて漿を飲ましむ。出でんと欲すれば馬を奉ず。意に随つて応用して差ふこと無し。灼然として須らく是れ箇の伶俐の漢にして始めて得べし。只だ僧の香厳に問ふが如し、「如何なるか是れ王仙陀婆を索むる」。厳云く、「這辺に過ぎ来れ」。僧過ぐ。厳云く、「人を鈍置殺す」。又趙州に問ふ、「如何なるか是れ王仙陀婆を索むる」。州禅床を下り、曲躬叉手す。当時若し箇の仙陀婆有りて、世尊未だ陞座せざる已前に向いて透り去らば、猶ほ些子に較れり。世尊更に陞座して便ち下り去る、已に是れ便を著けず。那ぞ堪へん文殊更に白槌するを。妨げず他の世尊の一上の提唱を鈍置することを。且く作麼生か是れ鈍置の処。

現代語訳

会衆の中にもし仙陀婆を心得た客がいたなら、文殊が槌を一つ打つ必要などなかった」。(評唱)「列聖の中にいる作家は知っている」。霊鷲山の八万の大衆は、みな列なる聖者たちである。文殊・普賢から弥勒に至るまで、主と伴とが一堂に会している。巧みの中の巧み、奇の中の奇である者でこそ、初めてその落ち着きどころが分かる。雪竇の意図はこうである。列聖の中にこれを知る者は一人もいない、もし作家たる者がいれば、そうではないと分かるはずだ、と。なぜか。文殊は槌を打って「よくよく法王の法を観よ。法王の法はこのとおりである」と言ったが、雪竇は「法王の法令はそのようなものではない」と言う。なぜそうなのか。その時、会衆の中に、頭頂に眼を備え、肘の後ろに護符を帯びたような者がいて、世尊がまだ座に上る前に見破ることができたなら、どうして文殊が槌を打つ必要があっただろうか。『涅槃経』に言う。「仙陀婆は一つの名に四つの実がある。一は塩、二は水、三は器、四は馬である」。ある賢い臣下がいて、この四つの意味をよく心得ていた。王が顔を洗おうとして仙陀婆を求めれば、臣はすぐ水を差し出す。食事の時に求めれば塩を差し出し、食べ終われば器を差し出して飲み物を飲ませる。出かけようとすれば馬を差し出す。意のままに応じて誤ることがない。まことに、このような利発な者であってこそ可能なのである。ちょうど、ある僧が香厳に「王が仙陀婆を求めるとはどういうことか」と問うと、香厳は「こちらへ来なさい」と言い、僧がそちらへ行くと、香厳は「人をひどく間抜けにさせることよ」と言った。また趙州に「王が仙陀婆を求めるとはどういうことか」と問うと、趙州は禅床を下りて、身をかがめ手を組んだ。その時もし仙陀婆を心得た者がいて、世尊がまだ座に上る前に通り抜けていたなら、まだ少しはましだった。世尊がさらに座に上ってすぐに下りたのは、すでに手際が悪い。まして文殊がさらに槌を打つとはなおさらである。これは世尊の一度の説法を、ひどく間の抜けたものにしてしまった。さて、どこが間の抜けたところなのか。

解説

雪竇の頌の後半二句と、それに対する圜悟の評唱である。雪竇は、会中に仙陀婆を心得た者がいれば文殊の槌は要らなかったと歌い、文殊の「法王の法は是の如し」をあえて否定する。圜悟は『涅槃経』の仙陀婆の譬えを引き、一つの言葉で塩・水・器・馬のいずれが求められているかを場に応じて察する臣下の聡さを説く。香厳と趙州の問答も、その察しのはたらきを示す例として挙げられている。世尊が座に上る前に見抜けてこそ本物だという厳しさが、この頌の眼目である。言われる前に相手の求めを察して差し出す力は、現代の仕事でも最も信頼される資質の一つである。

この章句が説くこと

仙陀婆文殊白槌察し頌機転言葉

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