導師導古典を学びたいすべての人に

碧巌録 / 第八十四則

咄這維摩老 悲生空懊惱臥疾毘耶離全身太枯槁七佛祖師來一室且頻掃 請問不二門當時便靠倒不靠倒 金毛獅子無處討雪竇道。咄這維摩老。頭上先下一咄作什麼。以金剛王寶劍。當頭直截。須朝打三千暮打八百始得。梵語云維摩詰。此云無垢稱。亦云淨名。乃過去金粟如來也。不見僧問雲居簡和尚。既是金粟如來。為什麼却於釋迦如來會中聽法。簡云。他不爭人我。大解脫人不拘成佛不成佛。若道他修行務成佛道。轉沒交涉。譬如圓覺經云。以輪迴心。生輪迴見。入於如來大寂滅海。終不能至。永嘉云。或是或非人不識。逆行順行天莫測。若順行則趣佛果位中。若逆行則入眾生境界。壽禪師道。直饒爾磨鍊得到這田地。亦未可順汝意在。直待證無漏聖身。始可逆行順行。所以雪竇道。悲生空懊惱。維摩經云。為眾生有病故。我亦有病。懊惱則悲絕也。

新字:咄這維摩老 悲生空懊悩臥疾毘耶離全身太枯槁七仏祖師来一室且頻掃 請問不二門当時便靠倒不靠倒 金毛獅子無処討雪竇道。咄這維摩老。頭上先下一咄作什麼。以金剛王宝剣。当頭直截。須朝打三千暮打八百始得。梵語云維摩詰。此云無垢称。亦云浄名。乃過去金粟如来也。不見僧問雲居簡和尚。既是金粟如来。為什麼却於釈迦如来会中聴法。簡云。他不争人我。大解脱人不拘成仏不成仏。若道他修行務成仏道。転没交渉。譬如円覚経云。以輪迴心。生輪迴見。入於如来大寂滅海。終不能至。永嘉云。或是或非人不識。逆行順行天莫測。若順行則趣仏果位中。若逆行則入衆生境界。寿禅師道。直饒爾磨錬得到這田地。亦未可順汝意在。直待証無漏聖身。始可逆行順行。所以雪竇道。悲生空懊悩。維摩経云。為衆生有病故。我亦有病。懊悩則悲絶也。

書き下し

咄、這の維摩老、悲生じて空しく懊悩す。疾に毘耶離に臥し、全身太だ枯槁す。七仏の祖師来る、一室且く頻りに掃ふ。不二の門を請問す、当時便ち靠倒す。靠倒せず、金毛の獅子討ぬるに処無し。雪竇道ふ、「咄、這の維摩老」と。頭上に先づ一咄を下して什麼をか作す。金剛王宝剣を以て、当頭に直截す。須らく朝に打つこと三千、暮に打つこと八百にして始めて得べし。梵語に維摩詰と云ふ、此には無垢称と云ひ、亦た浄名と云ふ。乃ち過去の金粟如来なり。見ずや、僧、雲居簡和尚に問ふ、「既に是れ金粟如来ならば、什麼と為てか却つて釈迦如来の会中に於て法を聴く」。簡云く、「他は人我を争はず。大解脱の人は成仏と成仏せざるとに拘はらず」と。若し他は修行して仏道を成ずることを務むと道はば、転た没交渉なり。譬へば円覚経に云ふが如し、「輪廻の心を以て輪廻の見を生じ、如来の大寂滅海に入らんとするも、終に至ること能はず」と。永嘉云く、「或は是、或は非、人識らず、逆行順行、天も測る莫し」と。若し順行せば則ち仏果位の中に趣き、若し逆行せば則ち衆生の境界に入る。寿禅師道ふ、「直饒ひ爾磨錬して這の田地に到り得るも、亦た未だ汝が意に順ふ可からざること在り。直に無漏の聖身を証するを待つて、始めて逆行順行す可し」と。所以に雪竇道ふ、悲生じて空しく懊悩すと。維摩経に云く、「衆生病有るが為の故に、我も亦た病有り」と。懊悩は則ち悲絶なり。

現代語訳

咄(とつ)、この維摩じいさんめ。悲しみが生じて空しく思い悩んでいる。毘耶離で病に臥し、全身ひどく痩せ衰えた。七仏の師である文殊がやって来ると、一室をしきりに掃き清めておいた。不二の門について問われて、その時たちまち倒された。いや倒されてはいない、金毛の獅子は探しても見つからない。雪竇は「咄、この維摩じいさんめ」と言う。頭からまず一喝を下して何をするのか。金剛王の宝剣で、頭から真っ二つに断ち切るのである。朝に三千、晩に八百も打ってこそよい。梵語で維摩詰といい、ここでは無垢称といい、また浄名ともいう。過去の金粟如来である。知らないか、僧が雲居簡和尚に「金粟如来であるなら、なぜ釈迦如来の法会の中で法を聴いたのですか」と問うと、簡は「彼は人と我とを争わない。大解脱の人は、成仏するかしないかにこだわらない」と言った。もし維摩が修行して仏道を成就しようと努めたのだと言うなら、ますます見当違いである。たとえば『円覚経』に「輪廻の心で輪廻の見方を生じて、如来の大寂滅の海に入ろうとしても、ついに至ることはできない」とある。永嘉は「是であるか非であるか人は知らず、逆に行くか順に行くか天も測れない」と言った。順に行けば仏果の位に向かい、逆に行けば衆生の境界に入る。寿禅師は「たとえ君が錬磨してこの境地に至っても、まだ思いのままにはならない。汚れのない聖なる身を証してはじめて、逆にも順にも行ける」と言った。だから雪竇は「悲しみが生じて空しく思い悩む」と言う。『維摩経』に「衆生に病があるから、わたしもまた病む」とある。懊悩とはすなわち悲しみの極みである。

解説

雪竇の頌と圜悟の評唱の前半である。雪竇は頌の頭で「咄、この維摩じいさん」と一喝し、衆生を悲しんで空しく悩むと突き放す。圜悟は維摩が過去の金粟如来でありながら釈迦の会座で法を聴いたことについて、大解脱の人は成仏するかしないかにこだわらないという雲居の答えを引く。仏の位に向かう順行も、衆生の中に入る逆行も自在だからこそ、衆生が病むゆえに我も病むという維摩の病がある。上に立つ者があえて現場に降り、同じ痛みを引き受けることがある。その降り方が空しい悩みに終わるか、自在な逆行になるかが問われている。

この章句が説くこと

公案慈悲自由維摩順逆金粟如来

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る