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碧巌録 / 第七十三則

這箇公案。山僧舊日。在成都參真覺。覺云。只消看馬祖第一句。自然一時理會得。且道這僧。是會來問。不會來問。此問不妨深遠。離四句者。有。無。非有。非無。非非有。非非無。離此四句。絕其百非。只管作道理。不識話頭。討頭腦不見。若是山僧。待馬祖道了。也便與展坐具。禮三拜。看他作麼生道。當時馬祖。若見這僧來。問離四句絕百非。請師直指某甲西來意。以拄杖劈脊便棒趕出。看他省不省。馬大師只管與他打葛藤。以至這漢。當面蹉過。

新字:這箇公案。山僧旧日。在成都参真覚。覚云。只消看馬祖第一句。自然一時理会得。且道這僧。是会来問。不会来問。此問不妨深遠。離四句者。有。無。非有。非無。非非有。非非無。離此四句。絶其百非。只管作道理。不識話頭。討頭脳不見。若是山僧。待馬祖道了。也便与展坐具。礼三拝。看他作麼生道。当時馬祖。若見這僧来。問離四句絶百非。請師直指某甲西来意。以拄杖劈脊便棒趕出。看他省不省。馬大師只管与他打葛藤。以至這漢。当面蹉過。

書き下し

這箇の公案、山僧旧日、成都に在つて真覚に参ず。覚云く、「只だ馬祖の第一句を看ることを消ふ、自然に一時に理会し得ん」と。且く道へ、這の僧、是れ会して来たつて問ふか、会せずして来たつて問ふか。此の問、妨げず深遠なることを。四句を離るとは、有、無、非有、非無、非非有、非非無なり。此の四句を離れ、其の百非を絶す。只管に道理を作して、話頭を識らず、頭脳を討ぬるも見えず。若し是れ山僧ならば、馬祖の道ひ了るを待つて、也た便ち与に坐具を展べて礼三拝し、他の作麼生か道ふかを看ん。当時馬祖、若し這の僧の来たつて「四句を離れ百非を絶して、請ふ師、某甲に西来の意を直指せよ」と問ふを見ば、拄杖を以て脊を劈いて便ち棒して趕ひ出だし、他の省するや省せざるやを看ん。馬大師は只管に他の与に葛藤を打して、以て這の漢をして当面に蹉過せしむるに至る。

現代語訳

この公案について、わたしは昔、成都で真覚禅師に参じた。真覚は言った。「ただ馬祖の最初の一句を見さえすれば、自然に一挙に理解できる」。さて言ってみよ、この僧はわかっていて問いに来たのか、わからずに問いに来たのか。この問いは実に深遠である。四句を離れるとは、有・無・非有・非無、さらに非非有・非非無といった言い方を離れることである。この四句を離れて、その百の否定をも絶つ。ところが人はひたすら理屈を立てるばかりで、話の肝を知らず、要点を探しても見当たらない。もしわたしなら、馬祖が言い終わるのを待って、すぐに坐具を広げて三拝し、馬祖がどう言うかを見ただろう。当時馬祖がもし、この僧が来て「四句を離れ百非を絶して、どうか師よ、わたしに西来の意をじかに指し示してください」と問うのを見たなら、拄杖で背中をぶち叩いて追い出し、彼が気づくかどうかを見ればよかった。ところが馬大師はひたすら彼のために言葉のもつれ合いをして、この男に目の前で機会を取り逃がさせるに至ったのである。

解説

圜悟の評唱の前半で、自分が成都で真覚禅師に参じた思い出から入る。真覚は、馬祖の最初の一句さえ見れば一挙にわかると言った。圜悟は四句百非の意味を説いたうえで、人はそこに理屈を立てるばかりで話の肝を掴めないと言う。自分なら坐具を広げて三拝する、馬祖なら棒で叩き出してもよかった、と圜悟は別の応じ方を示す。馬祖が言葉で相手をしたために、かえって僧は目の前の機会を取り逃がしたというのである。丁寧に説明することが、相手の気づきを遅らせる場合もある。

この章句が説くこと

四句百非真覚馬祖理屈公案言葉

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