導師導古典を学びたいすべての人に

碧巌録 / 第五十五則

源後來至一小院。聞行者誦觀音經云。應以比丘身得度者即現比丘身而為說法。忽然大悟云。我當時錯怪先師。爭知此事。不在言句上。古人道。沒量大人。被語脈裏轉却。有底情解道。道吾云。不道不道。便是道了也。喚作打背翻筋斗。教人摸索不著。若恁麼會。作麼生得平穩去。若脚踏實地。不隔一絲毫。不見七賢女遊屍陀林。遂指屍問云。屍在這裏。人在什麼處。大姊云。作麼作麼。一眾齊證無生法忍。且道有幾箇。千箇萬箇。只是一箇。

新字:源後来至一小院。聞行者誦観音経云。応以比丘身得度者即現比丘身而為説法。忽然大悟云。我当時錯怪先師。争知此事。不在言句上。古人道。没量大人。被語脈裏転却。有底情解道。道吾云。不道不道。便是道了也。喚作打背翻筋斗。教人摸索不著。若恁麼会。作麼生得平穏去。若脚踏実地。不隔一糸毫。不見七賢女遊屍陀林。遂指屍問云。屍在這裏。人在什麼処。大姊云。作麼作麼。一衆斉証無生法忍。且道有幾箇。千箇万箇。只是一箇。

書き下し

源、後来一小院に至り、行者の観音経を誦して「応に比丘身を以て度することを得べき者には、即ち比丘身を現じて為に法を説く」と云ふを聞いて、忽然として大悟して云く、「我当時錯つて先師を怪しむ。争でか知らん此の事の言句の上に在らざることを」。古人道ふ、「没量の大人も、語脈裏に転却せらる」と。有る底は情解して道ふ、「道吾の『道はじ、道はじ』と云ふは、便ち是れ道ひ了れり」と。喚んで打背翻筋斗と作し、人をして摸索不著ならしむ。若し恁麼に会せば、作麼生か平穏なることを得去らん。若し脚、実地を踏めば、一糸毫をも隔てず。見ずや、七賢女、屍陀林に遊び、遂に屍を指して問うて云く、「屍は這裏に在り、人は什麼の処にか在る」。大姊云く、「作麼、作麼」。一衆斉しく無生法忍を証す。且く道へ、幾箇か有る。千箇万箇、只だ是れ一箇。

現代語訳

漸源は後にある小さな寺に行き、行者が観音経の「比丘の身によって救われるべき者には、比丘の身を現して法を説く」という一節を誦えるのを聞いて、たちまち大悟して言った、「わたしはあのとき誤って先師を恨んでいた。この事が言葉の上にはないことを、どうして知りえただろうか」。古人は「計り知れぬ大人物も、言葉の筋道の中で振り回される」と言った。ある者は情で理解して、「道吾が『言わぬ、言わぬ』と言ったのは、そのまま言ってしまったのだ」と言う。それを背中から宙返りする芸だと呼び、人に手探りもさせないようにする。もしそのように理解するなら、どうして平穏を得られようか。もし足が実地を踏んでいれば、髪の毛一筋ほども隔たりはない。知らないか、七人の賢女が屍陀林(墓地)に遊び、屍を指して「屍はここにある。人はどこにいるのか」と問うた。長姉が「なに、なに」と言うと、一同そろって無生法忍を悟った。さて言ってみよ、何人いるのか。千人万人であっても、ただ一人である。

解説

評唱の中段で、圜悟は漸源が観音経の一節を聞いて大悟した因縁を語る。漸源は、師が言わなかったのは事柄が言葉の上にないからだと気づき、師を恨んでいた自分の誤りを知った。圜悟はさらに、「言わぬと言ったことが言ったことだ」という気の利いた解釈も、背中から宙返りする芸にすぎないと退ける。続いて七賢女が屍陀林で屍を指して人はどこにいるかと問うた話を引き、千人万人でもただ一人と結ぶ。言葉で巧みに説明できることと、腹の底から分かることとの違いは、どんな専門の仕事にも通じる。

この章句が説くこと

漸源悟り言葉観音経七賢女生死

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る