導師導古典を学びたいすべての人に

碧巌録 / 第五十一則

德山齋晚。老子自捧鉢下法堂去。巖頭道。大小德山。未會末後句在。雪竇拈云。曾聞說箇獨眼龍。元來只具一隻眼。殊不知。德山是箇無齒大蟲。若不是巖頭識破。爭知得昨日與今日不同。諸人要會末後句麼。只許老胡知。不許老胡會。自古及今。公案萬別千差。如荊棘林相似。爾若透得去。天下人不奈何。三世諸佛。立在下風。爾若透不得。巖頭道。雪峯雖與我同條生。不與我同條死。只這一句自然有出身處。雪竇頌云。

新字:徳山斎晩。老子自捧鉢下法堂去。巖頭道。大小徳山。未会末後句在。雪竇拈云。曽聞説箇独眼竜。元来只具一隻眼。殊不知。徳山是箇無歯大虫。若不是巖頭識破。争知得昨日与今日不同。諸人要会末後句麼。只許老胡知。不許老胡会。自古及今。公案万別千差。如荊棘林相似。爾若透得去。天下人不奈何。三世諸仏。立在下風。爾若透不得。巖頭道。雪峯雖与我同条生。不与我同条死。只這一句自然有出身処。雪竇頌云。

書き下し

徳山、斎晩し、老子自ら鉢を捧げて法堂に下り去る。巌頭道ふ、「大小の徳山、未だ末後の句を会せざること在り」。雪竇拈じて云く、「曽て聞く、箇の独眼竜を説くと。元来只だ一隻眼を具するのみ。殊に知らず、徳山は是れ箇の無歯の大虫なることを。若し是れ巌頭の識破するにあらずんば、争でか昨日と今日と同じからざることを知り得ん」。諸人、末後の句を会せんと要すや。只だ老胡の知るを許して、老胡の会するを許さず。古より今に及ぶまで、公案万別千差、荊棘の林の如くに相似たり。爾若し透得し去らば、天下の人も奈何ともせず、三世の諸仏も下風に立在せん。爾若し透不得ならば、巌頭道ふ、「雪峰は我と同条に生ずと雖も、我と同条に死せず」と。只だ這の一句、自然に出身の処有り。雪竇頌して云く。

現代語訳

徳山は食事が遅れたとき、自ら鉢をささげて法堂に下りていった。巌頭は「さすがの徳山も、まだ末後の句がわかっていない」と言った。雪竇はこれを取り上げて言った、「かつて独眼竜のことを聞いていたが、もともと片目しか具えていなかったのだ。徳山が歯のない虎であることに気づいていない。もし巌頭が見破らなかったら、どうして昨日と今日とが違うことを知りえただろうか」。諸君は末後の句を理解したいか。ただ達磨が知ることは許すが、達磨が理解することは許さない。昔から今に至るまで、公案は千差万別で、いばらの林のようである。もしこれを透り抜ければ、天下の人もどうにもできず、三世の諸仏も風下に立つ。もし透り抜けられないなら、巌頭の言う「雪峰はわしと同じ枝に生まれたが、同じ枝に死にはしない」を見よ。この一句には、おのずから抜け出る道がある。雪竇は頌していう。

解説

本則評唱の結びで、圜悟は雪竇の拈語を引いて徳山托鉢の話を締めくくる。雪竇は、独眼竜と言われる巌頭も実は片目しかなく、徳山は歯のない虎だと評して、徳山の無言の深さを持ち上げる。「只だ老胡の知るを許して、老胡の会するを許さず」は、末後の句が理屈で会得するものではないことを示す圜悟の常套句である。公案は荊棘の林のように入り組んでいるが、透り抜ければ三世の諸仏さえ風下に立つという。わかったつもりの「会」と、身に沁みた「知」とを区別することは、仕事の技能を磨くうえでも欠かせない視点である。

この章句が説くこと

雪竇拈語末後句理解公案徳山

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る