驢鞍橋 / 卷下
一僧問ふ、師何某は親しく出入して敎を受けられけるが、却て師の法を謗せらるゝと承る、其仔細有りや。師聞て曰く、然るべし、三十日に一度ばかりづゝ、我面を見物に來る分にては、何として我意を知らんや、總而我思はくに違へば、誹謗するもの也、大略見物計の人多からんすと也。
新字:一僧問ふ、師何某は親しく出入して教を受けられけるが、却て師の法を謗せらるゝと承る、其仔細有りや。師聞て曰く、然るべし、三十日に一度ばかりづゝ、我面を見物に来る分にては、何として我意を知らんや、総而我思はくに違へば、誹謗するもの也、大略見物計の人多からんすと也。
書き下し
一僧問ふ、師何某は親しく出入して教を受けられけるが、却て師の法を謗せらるゝと承る、其仔細有りや。師聞て曰く、然るべし、三十日に一度ばかりづゝ、我面を見物に来る分にては、何として我意を知らんや、総而我思はくに違へば、誹謗するもの也、大略見物計の人多からんすと也。
現代語訳
一人の僧が尋ねた。師のもとに某は親しく出入りして教えを受けられていたのに、かえって師の法をそしっておられると承ります。そのわけがあるのでしょうか。師は聞いて言われた。そうだろう。三十日に一度ずつ、私の顔を見物しに来る程度では、どうして私の意を知ることができよう。おおよそ自分の思わくに違えば、誹謗するものである。たいていは見物だけの人が多いだろう、と。
解説
親しく出入りしていた人が、正三の教えを悪く言っているという。正三は驚かず、月に一度顔を見に来る程度では真意は分からない、自分の思い込みと違えば人は悪く言うものだ、と答える。浅い関わりで分かったつもりになり、期待と違えば批判に転じる、というのは今も変わらない人の常である。見物に来るだけの人が多い、という言葉には、教えを本当に受け止める人の少なさへの冷静な認識がにじんでいる。
この章句が説くこと
誹謗理解思い込み期待見物人冷静
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