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碧巌録 / 第四十六則

虛堂雨滴聲。作者難酬對。若喚作雨聲。則是迷己逐物。不喚作雨聲。又如何轉物。到這裏。任是作者也難酬對。所以古人道。見與師齊減師半德。見過於師方堪傳授。又南院道。棒下無生忍。臨機不讓師。若謂曾入流。依前還不會。教中道。初於聞中。入流忘所。所入既寂。動靜二相了然不生。若道是雨滴聲。也不是。若道不是雨滴聲。也不是。前頭頌。兩喝與三喝作者知機變。正類此頌。若道是入聲色之流。也不是。若喚作聲色。依前不會他意。譬如以指指月。月不是指。會與不會。南山北山轉[雨/汸]霈也。

新字:虚堂雨滴声。作者難酬対。若喚作雨声。則是迷己逐物。不喚作雨声。又如何転物。到這裏。任是作者也難酬対。所以古人道。見与師斉減師半徳。見過於師方堪伝授。又南院道。棒下無生忍。臨機不譲師。若謂曽入流。依前還不会。教中道。初於聞中。入流忘所。所入既寂。動静二相了然不生。若道是雨滴声。也不是。若道不是雨滴声。也不是。前頭頌。両喝与三喝作者知機変。正類此頌。若道是入声色之流。也不是。若喚作声色。依前不会他意。譬如以指指月。月不是指。会与不会。南山北山転[雨/汸]霈也。

書き下し

「虚堂の雨滴声、作者も酬対し難し」。若し喚んで雨声と作さば、則ち是れ己に迷うて物を逐ふ。雨声と作さずんば、又如何が物を転ぜん。這裏に到つて、任是作者も也た酬対し難し。所以に古人道ふ、「見師と斉しきは師の半徳を減ず、見師に過ぎて方に伝授するに堪へたり」。又南院道ふ、「棒下の無生忍、機に臨んで師に譲らず」。「若し曾て入流すと謂はば、依前として還つて会せず」。教中に道ふ、「初め聞中に於いて流に入つて所を亡ず。入る所既に寂にして、動静の二相了然として生ぜず」。若し是れ雨滴声と道ふも也た是ならず、若し雨滴声にあらずと道ふも也た是ならず。前頭の頌に、「両喝と三喝と、作者機変を知る」と。正に此の頌に類す。若し声色の流に入ると道ふも也た是ならず、若し喚んで声色と作さば、依前として他の意を会せず。譬へば指を以て月を指すが如し、月は是れ指にあらず。「会と不会と、南山北山転た雱霈たり」。

現代語訳

「がらんとした堂に響く雨垂れの音、練達の者でも応じがたい」。もし雨の音と呼べば、自分を見失って物を追うことになる。雨の音と呼ばなければ、どうやって物を転じるのか。ここに到っては、たとえ練達の者でも応じがたい。それゆえ古人は言った。「見識が師と等しければ師の徳を半分減らす。見識が師を超えてはじめて伝授を受けるに足る」。また南院は言った。「棒の下で無生の悟りを得たなら、機に臨んでは師にも譲らない」。「もしかつて流れに入ったと言うなら、相変わらずやはり会得していない」。経典には「初め聞くことの中で流れに入って対象を忘れる。入ったところがすでに静まり、動と静の二つの相がはっきりと生じない」とある。雨垂れの音だと言っても正しくなく、雨垂れの音でないと言っても正しくない。前の頌に「二喝と三喝と、練達の者は機の変化を知る」とあったが、まさにこの頌に類している。声と色の流れに入ると言っても正しくなく、声と色と呼べば、やはり相変わらず鏡清の意を会得していない。たとえば指で月を指すようなもので、月は指ではない。「会得したとしてもしないとしても、南の山にも北の山にも、雨はいよいよ激しく降りしきる」。

解説

雪竇の頌に対する圜悟の評唱である。雨声と呼べば己に迷って物を逐うことになり、呼ばなければ物を転じられないという板挟みを示し、ここでは作者も答えに窮すると説く。師に並ぶだけでは師の徳を半減させるという古人の言葉や、南院の機に臨んで師に譲らずの語を引き、師を超える見識を求める。入流の句については『楞厳経』の聞中入流亡所の一節を出典として示す。雨滴声だと言っても違い、そうでないと言っても違うのは、指で月を指すように言葉が実物ではないからである。言葉にした途端に取りこぼすものへの感度を養うことが求められている。

この章句が説くこと

評唱言葉声色楞厳経指月師弟

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